今回は「狐井の板仏」という聞き慣れない場所から訊ねてみよう。堀内は高田高等女学校というところに講師としてかなんかで関係していたようで、春秋のお彼岸の中日の午後おそく、二上山を真西にして女学生等を引き連れて野道を散策した思い出を懐かしく語っている。高田川を渡った陵西(おかにし)村岡崎という地名は、古代の傍岡(かたおか)の「崎」を示すもので、北の岡崎は法隆寺に近い安堵村岡崎を言う。この傍岡という地名、どこかでチラッと読んだ気がするが、どうにも思い出せない。聖徳太子が道端で倒れている乞食を哀れに思い、自らの衣服を脱いで与えたら、その乞食が実は阿弥陀様だったとか何とか、そんな話の場所がこの「傍岡」だった気がするが、確かではない。この安堵村は確か、前回の記事で取り上げた「石川」が大和川に合流する場所にあった名前だったな、と思ったが、調べたらその場所は「安堂町」であった。ああ、勘違い。二上山を挟んで西側を流れる石川と、東側を流れる高田川の違いである。ちなみに安堵町の西はもう、法隆寺で馴染み深い「斑鳩町」だ。こういうところが奈良の最大の魅力であり、狭い地域のどこを歩いても記紀の世界のままの地名が残っているという、私のような歴史好きには「歩いているだけで古代に出会える」夢のような場所なのだ。
今回は、本を読みながら iPad の地図アプリで周辺地域を確かめてあれこれ想像すると楽しい。空想旅行では必須のやり方である。そこで iPad の Yahoo Map とアップルのプリインストールされている地図アプリ、それとグーグルマップの3つを比べてみたらそれぞれ微妙に特徴があって、使い方を工夫するとさらに面白くなりそうだ。今回「川の名前」などを調べるのに便利なのがグーグルだった。ちなみに旅行に行くならグーグルが見やすくて、観光スポット中心に地名が載っているように思えたのでお勧めである。Yahoo のは情報が整理されていて見やすく、地域の全体像を掴むのに便利なように思う。特に私が大好きな「喫茶店」とか探すときには便利だと思った。アップルの地図は高機能だがちょっと使いにくい感じがあり、現地の映像などもピンポイントに写すのは難しい。もっと自在に地図を使いこなせれば、旅行も楽しくなるのにと思った。私は地図を見ながら、地名にまつわる歴史を想像するのが好きである。とりあえず高田川近辺を地図で見てみると、JR和歌山線と近鉄南大和線の間に挟まれて「陵西小学校」というのが大和高田市にある。どうもこのあたりが陵西村の岡崎ではあるまいか。
この辺りは扇状地なのか川がいくつもあって、東から寺川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川、と並行して流れている。古代史好きには馴染みのある名前ばかりだが、南から北に流れた行って「大和川」に合流し、生駒山系と葛城山系の間を縫って大阪湾に流れ込んでいるのだ。大和川は桜井の北あたり(長谷寺のもっと北の方)に源流を持つ大和を横断する大河である。グーグルのストリートビューで見てみると「のどかな田舎の風景」が視界一杯に広がっている。やはり奈良は変わっていないな、と安心した。ここで少し堀内民一の文章で、当時の風景を眺めてみよう。
・・・『私たちは、岡崎の村から少し北へ歩き和歌山線の踏切を通るとき、二本のレールが冷え冷えと夕日に光る乱松の濠のほとりにのぼる。その築山古墳の赤土の道から、見わたす当麻野の早春の麦のみどりを縫うように、白じろと見える道、村、森、池などが夕風になまめきだす光景が美しかった。膚さむい位の夕風で、菜の花がちらほら咲きだす生気みなぎる野のかなたに、二上山が見える。』・・・
とまあ、ちょっと古めかしいが元々「昭和のレトロな文章」なので、そのへんは割引して読んであげたい。なにより彼は生粋の大和人で、生涯を記紀万葉の研究に捧げた民俗学者である。だからなのか、生まれた土地に対する愛情が溢れていて、読んでいてなんだか「ほんわか」として来るのは味だろうか。彼は「豆山三里」とよばれる南北の豆山丘陵に立って二上山を見上げているのだが、この丘陵の北が安堵村である。この頁には「築山から眺めた二上山」の美しい写真が載っている。勿論、白黒である。古い写真というのも味があって、ジイっと見入っていると何だか「有りもしない懐かしさ」が感じられて来るから不思議なものだ。
この文章に出てくる「築山古墳」というのは、陵西小学校の北にある小さな古墳のことである。この古墳に登って二上山の夕日を眺めたとき、その前方に見えるこじんまりとした森のあたりにある小さな村が「五位堂の狐井(きつい)」という村だ。土地の人はキツネと呼んでいるそうである。この村に「恵心の板仏(いたぼとけ)」という仏像があって、福応寺に祀られているという。花山天皇の寛和元年(985年)の秋、44歳の恵心僧都が京都から故郷の奈良に帰省した時に狐井の村あたりの川を通りがかると、仏の名を称えながら洗濯している女に出会った。恵心が仏名を称える理由を訊ねた所、善智識の教えに従うのみと答えたという。そこで恵心は女の持っていた「洗濯板」に弥陀・観音・勢至の絵を描いて与えた所、女は高野山を指して歩き去った。寺の縁起が伝える伝承である。ちなみにこの板は、現在福応寺の厨子に安置されている本尊である。恵心のような歴史上の人物も、その土地の風景の中で改めて見直してみると、グッと生き生きと親近感が湧いてくる。
この本には他にも、地域の太子信仰や東大寺二月堂の「青衣女人」の話とか、恵心僧都が描いたとされる「山越しの阿弥陀像」の、上題字の「永別故山秋月送」という詩について折口信夫博士が語った言葉など、どれをとっても「深堀したくなるエピソード」が満載で、実に興味深い。堀内民一はこの傍岡の古墳の松林から眺める、二上山の鞍部(たわ)のあたりにかかる夕日をこよなく愛したようである。西行法師が吉野の桜の美しさを詠んだ、
・・・春風の 花を散らすと 見る夢は 覚めても胸の 騒ぐなりけり・・・
という歌を引き合いに出して、「当麻の落日」を称賛している。堀内にしてみれば、単なる綺麗な夕景色といった「インスタ映えする絶景」などではなく、幼い頃から積み重なった万感の想いが込められた上での「落日」の風景であろう。我々他県の人間にすれば「大津皇子の悲劇」の場所としか思わないで通り過ぎてしまう景色だが、土地に育った者にしてみれば、人生の喜怒哀楽を象徴する「落日」なのかも知れない。そう考えれば、自ずと「感じるもの」は両者の間で違っていて不思議はない。私が奈良に移住したいと考えるようになったのには、そういう日常の日々の思い出を「奈良の風景の中に重ねてみたい」と思ったからである。残り少ない私の人生を、ここ奈良の、古代万葉の息吹きを感じながら生きていくことが出来れば本望である。
(続く)
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