『ただだしい人からたのしい人へ』(小林正観著、弘園社、2002年、1500円)より抜粋。癌に関連する部分を。
悪いことをしてないのに
ある方が、講演会の後の二次会でこのような質問をされました。「私の友人がついこの間、ガンで死にました。その人は『世の中には悪いことをして人に嫌がられ、迷惑を掛ける存在でありながら楽しく愉快に生きている人がいるというのに、私は何も悪いことをしていないのに、なんでこんな病気になって死んでいかなければならないのか。理不尽ではないか。私が何を悪いことをしたというのか』と言いながら死んでいきました。そのことについて伺いたいのです」と言いました。 どうしてそんな不公平なことが起きるのか、というのが質問の趣旨でした。
私はこう答えました。
「ガンになって、あと数ヶ月の命と言われたとき、例えば自分の好きな絵を描いて何十点か残そうとか、作曲をしたり、好きな曲を演奏して録音して残そうとか、本を書いたり短歌や俳句を書いて残そうとか、そういうふうに自分の存在証明を残すということで気持を切り替えた人たちがいます。
そのような人たちには、宣告された期間が過ぎても死なない、というケースが多々ありました。あと三ヶ月といわれた人が半年も生きていたり、半年といわれた人が1年も生き延びているという事実に驚き、病院で検査をするとガン細胞が消滅している、というものです。そういう例が世の中には多々あるようなのです。
今の方のような『ほかにもっと悪いことをしている人たちがたくさんいるのに、その人たちには何も起こらなくて、何も悪いことをしないで正しく生きてきた私になぜこんなことをが起きるのか』という質問は、自分の運命を恨み、呪って、受け入れなかったことのストレスのゆえのものだったかもしれません。
自分が『正しく』生きてきたかどうかではなく、問題は『楽しく』生きてきたかどうかなのです(太字は聡哲による)」
「正しい」ということを人生の中に掲げて生きてきた人は、多分つらかっただろうと思います。「正しい」かどうかではなく「楽しい」かどうかです。自分がその生活が楽しいのかどうか、それを基準にものを考えるということが、実はとても重要なことのように思えます」
→これまでベティ・シャインなどの霊能者の本を読んできて生命エネルギーが伸びやかでなく鬱屈しているとその影響が身体に及んでやがて病となると学んだ。「人はこの世に使命を果たしにくるのではなくただ経験を楽しみにくる」と考えれば「生き生きと楽しく過ごせないことは人の本来の姿ではない」のだろう。病は楽しくないと魂が感じていることの身体への表れなのか。もちろんいつも笑顔で楽しそうな人だって病になるのだからこれが正しいかはわからない。あ、いかんな。まだ正しい正しくないで思考している
ですから「自分は正しい生き方をし、ほかの人は正しくない生き方をしてきたにもかかわらず、正しいほうの私が病気を得て、正しくない方の人がのうのうと生きている」と考えること自体が、すでに自分の身体にガン細胞を作っているということになりそうです。
悟りとは受け入れること。
先述しましたが受け入れるためには3秒あればよいのです。
一秒目、過去のすべてを受け入れること。
二秒目、現在のすべてを受け入れること。
三秒目、未来のすべてを受け入れること。
受け入れることが悟ること。
「こうありたい」「こうあってはならない」と思うことはそのどちらも執着ということにほかなりません。執着していることが、自分にとってのストレスになり、ストレスが身体を壊していくようです。悟りとはただただ受け入れることなのかもしれません」
→執着にはいろいろある。「玄米菜食しなきゃいけない」「考えを変えなきゃいけない」「魂を磨かなきゃいけない」・・・・。これらもそうだ。ぼくが今まで思ってきたし患者さんに言ってきたことでもある。でもこれも執着なんだろう。
ガンを治すのにこれまでの自分を省みて思うところあって変えようと努力はし始めた。でも「変えられればいいな、でも変われなくてもいいや」という柔らかい姿勢、目標設定しない、努力しない、受け入れて楽しむことが大事という道と、治すためにはきちんと目標設定して努力しないといけないとひたすら頑張る道。正観さんは「お好きなほうを。それは人の趣味の問題ですから。正しい正しくないではないですから」という言い方をしている。
最近「癌を治すための代替医療は自分の直感で選びましょう」とコメントしたんだけど、正観さんの本を読んで“直感”よりも“それが楽しいか楽しくないか”で選ぶことがいいのかも、と思い始めている。
悪いことをしてないのに
ある方が、講演会の後の二次会でこのような質問をされました。「私の友人がついこの間、ガンで死にました。その人は『世の中には悪いことをして人に嫌がられ、迷惑を掛ける存在でありながら楽しく愉快に生きている人がいるというのに、私は何も悪いことをしていないのに、なんでこんな病気になって死んでいかなければならないのか。理不尽ではないか。私が何を悪いことをしたというのか』と言いながら死んでいきました。そのことについて伺いたいのです」と言いました。 どうしてそんな不公平なことが起きるのか、というのが質問の趣旨でした。
私はこう答えました。
「ガンになって、あと数ヶ月の命と言われたとき、例えば自分の好きな絵を描いて何十点か残そうとか、作曲をしたり、好きな曲を演奏して録音して残そうとか、本を書いたり短歌や俳句を書いて残そうとか、そういうふうに自分の存在証明を残すということで気持を切り替えた人たちがいます。
そのような人たちには、宣告された期間が過ぎても死なない、というケースが多々ありました。あと三ヶ月といわれた人が半年も生きていたり、半年といわれた人が1年も生き延びているという事実に驚き、病院で検査をするとガン細胞が消滅している、というものです。そういう例が世の中には多々あるようなのです。
今の方のような『ほかにもっと悪いことをしている人たちがたくさんいるのに、その人たちには何も起こらなくて、何も悪いことをしないで正しく生きてきた私になぜこんなことをが起きるのか』という質問は、自分の運命を恨み、呪って、受け入れなかったことのストレスのゆえのものだったかもしれません。
自分が『正しく』生きてきたかどうかではなく、問題は『楽しく』生きてきたかどうかなのです(太字は聡哲による)」
「正しい」ということを人生の中に掲げて生きてきた人は、多分つらかっただろうと思います。「正しい」かどうかではなく「楽しい」かどうかです。自分がその生活が楽しいのかどうか、それを基準にものを考えるということが、実はとても重要なことのように思えます」
→これまでベティ・シャインなどの霊能者の本を読んできて生命エネルギーが伸びやかでなく鬱屈しているとその影響が身体に及んでやがて病となると学んだ。「人はこの世に使命を果たしにくるのではなくただ経験を楽しみにくる」と考えれば「生き生きと楽しく過ごせないことは人の本来の姿ではない」のだろう。病は楽しくないと魂が感じていることの身体への表れなのか。もちろんいつも笑顔で楽しそうな人だって病になるのだからこれが正しいかはわからない。あ、いかんな。まだ正しい正しくないで思考している
ですから「自分は正しい生き方をし、ほかの人は正しくない生き方をしてきたにもかかわらず、正しいほうの私が病気を得て、正しくない方の人がのうのうと生きている」と考えること自体が、すでに自分の身体にガン細胞を作っているということになりそうです。
悟りとは受け入れること。
先述しましたが受け入れるためには3秒あればよいのです。
一秒目、過去のすべてを受け入れること。
二秒目、現在のすべてを受け入れること。
三秒目、未来のすべてを受け入れること。
受け入れることが悟ること。
「こうありたい」「こうあってはならない」と思うことはそのどちらも執着ということにほかなりません。執着していることが、自分にとってのストレスになり、ストレスが身体を壊していくようです。悟りとはただただ受け入れることなのかもしれません」
→執着にはいろいろある。「玄米菜食しなきゃいけない」「考えを変えなきゃいけない」「魂を磨かなきゃいけない」・・・・。これらもそうだ。ぼくが今まで思ってきたし患者さんに言ってきたことでもある。でもこれも執着なんだろう。
ガンを治すのにこれまでの自分を省みて思うところあって変えようと努力はし始めた。でも「変えられればいいな、でも変われなくてもいいや」という柔らかい姿勢、目標設定しない、努力しない、受け入れて楽しむことが大事という道と、治すためにはきちんと目標設定して努力しないといけないとひたすら頑張る道。正観さんは「お好きなほうを。それは人の趣味の問題ですから。正しい正しくないではないですから」という言い方をしている。
最近「癌を治すための代替医療は自分の直感で選びましょう」とコメントしたんだけど、正観さんの本を読んで“直感”よりも“それが楽しいか楽しくないか”で選ぶことがいいのかも、と思い始めている。