WINK-SHOT

ハワイと日本で撮った写真で感じた処を綴っています。愛機はCanonEos5DMarkIIIです

JRのガード下に残る空襲の弾痕

2009年10月08日 | 日本の風景写真


先週末、カメラ一式を背負って、身軽なバイクで大阪市内をうろちょろしてきました。

高射砲砲台跡を後にして、30分くらい地図を片手にある場所を探し当てました。



古びたコンクリートの壁に残るこの凹み。

なんだと思いますか?







たくさん、こんな穴がここの壁面には残されています。








そう、実はこれも第二次世界大戦の爪痕なんです。

色んな本を漁っているうちに昭和初期や大正、明治の頃の大阪に残るものに

目が行きはじめました。もちろん第二次世界大戦も含まれてきます。








大阪市福島区鷺洲5-7付近のJR東海道線のガード下壁面に

昭和20年(1945年)6月7日の空襲の時に残された弾痕があると知りました。

爆弾の炸裂による、破片のものなのか、戦闘機などの機銃掃射の弾痕か

はっきりしたことは不明ですが、ここを探していくつもガード下を覗きましたが

こんな無数の穴が開いてるのはここだけでした。

なんの看板も保護も無いので、僕がカメラを向けていると

通る人たちがレンズの見る方に一体何があるんだろうと

かなり注視してましたがたぶん誰も分からなかったと思います。






一つ疑問が湧いてきました。

線路の下にはたくさんの弾痕があるのに

側面にはもっと弾痕があって当然だろうと・・・

探しましたが全然ありません。

ふと気付いたのが側面とガード下の色の違いです。

どうやら側面は後から新たにコンクリートで作られたようです。

補強のためなのでしょうか・・・

東海道本線の大阪-神戸間は明治7年(1874年)開通とのことなので

この壁面が世界大戦より以前に建造されたことは確かのようです。

で、側面は戦後の最近に作られ、当時の壁面はガード下にしか残っていないのでしょう。

世界大戦時に日本全域はもちろん、大阪も大空襲で焼け野原になったとは

知っていましたが、痕跡なるものを生で見たのは初めてでした・・・

空襲で焼け野原にされた時、大阪は視界を遮る建物が無くなってしまい

今では想像できませんが、梅田から難波高島屋が見えたとの記述もありました。

これからは、身近に残る身近に感じる歴史や、大阪の特徴的な場所などを探して撮り歩いて

自分の住む場所を自分なりに見つめなおしてみようと思います。






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