《落日菴執事の記》 会津八一の学芸の世界へ

和歌・書・東洋美術史研究と多方面に活躍した学藝人・ 会津八一(1881-1956)に関する情報等を発信。

喜多上氏の墓を詣でて

2019年01月28日 | 日記

来たる5月で、喜多上氏が逝去して5年になる。親しくしていただいていた身からすれば、あっという間であった。

今日、横浜市緑区は寶袋寺にある氏の墓を詣でた。(先祖代々の墓は大和長谷寺にあり、そちらにも分骨されている)

喜多上(きたのぼる)氏は、元広島文教女子大学教授。會津八一の卓越した研究で知られる文学者であった。

(平成19年3月興福寺歌碑建立式典にて 杉村浩氏撮影)


氏の略歴を掲げておこう。

昭和23年、千葉県茂原市生まれ。裁判官であった父君の転勤に伴い、北海道、富山、三重等で少年時代を過ごす。(ちなみに裁判官、弁護士であった父君も旧制早稲田高等学院、早大法学部出身であられたという)

三重県立津高等学校卒業
早稲田大学第一文学部人文専修卒業
早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了(窪田章一郎研究室)
広島文教女子大学教授
平成26年5月8日殁

著書
『山中高歌の世界』(北島書店)
『會津八一の歌境』(春秋社)
『「はちすの露」を読む』(春秋社)

嘗て私が、「秋艸」に投稿した追悼文「師父悠遠」をの一部をここに挙げる。(太字は喜多氏の発言・文)

喜多上氏が五月八日に逝去された。享年六六歳。私に「親子以上の温情を惜しま」れなかった氏。(中略)初めて氏とお話したのは、私が大学へ入学した春。滔滔と文化の香り高い話をされたが、難しく内容を余り理解できなかった。しかし夕食の折の一言を忘れない。私が氏を「先生」とお呼びすると、優しい口調でおっしゃった。

君、ぼくを先生と呼ぶのはよし給え。堅苦しいからさ。喜多さんでいこう。なにせぼくと君の関係は、會津八一を共に勉強する仲間のようなものなのだから。

 あの名著『會津八一の歌境』の著者が、こんな温かい言葉をかけてくださるとは。権威に阿らない独立した個人ともいうべき氏の人格を私は感じた。それは八一から継いだ精神に違いない。八一を研究するだけでなく、八一を実践し、八一を生きた方だった。

 氏は学芸誌『銅鑼』(校倉書房)や『書論』(書論編集室)に主な論攷を執筆された。

 氏の八一学の特質は、専門の枠組みを取り払い、八一が読んだ書物を原文で精読し、先行作品を八一がいかに咀嚼したかを明らかにした比較文化学的な点にある。鋭い感性を恃んだ吉野や西世古の説を乗り越え得たゆえんはここにある。

氏の論で傑出するのは、救世観音詠の解釈だ。(「きみはほほゑむ」『銅鑼』五九号)

「あめつちにわれひとりゐてたつごとき」を支配するタ行音「つちーとーてーたつーと」の力強いひびきは、正面から見た仏の衆生(しゅじょう)済度(さいど)の荒ぶる姿であろう。「このさびしさを」のサ行音「さーしさ」の沁みとおるひびきは、荒ぶる姿と裏腹の仏の寂寥感であろう。「われ」の「さびしさ」は作者・観音の双方とする解釈が一般的だが、観音に絞ってよい。「きみはほほゑむ」のハ行音「はほほ」の柔和なひびきの連続は、正面より側面の微笑だろう。正面に側面の像がかさなり、ピカソ、ブラックらのキュービズムの立体像を連想させる。孤独な寂寥感を慈悲の微笑みがつつみこむ、自分の悩みは自分で慰める、観音の治癒力であろう。タ行音の荒々しさをサ行音で漉し、ハ行音の柔らかさにつなげる。八一音韻の粋を駆使し、下から上へ、動から生へ移り行く。また結句の自動詞「ほほゑむ」を他動詞に用い、初句から「さびしさ」までを目的格とし、正面と側面との融和をはかっている。与えるだけでは報われない「さびしさ」を「ほほゑむ」ことで「さびしさ」をつつみこむ、慈悲のあり様をしめしていないか。フェノロサも亀井も両者の溝をうめられなかっただけに、表現・解釈の驚くべき深化である。そこで「われ」と「きみ」とは、観音の正面と側面とを指すことも、自然に受けいれられる。荒々しい正面が一人称なら、柔和な側面は二人称だろう。見る「われ」は見られる「きみ」に融けこんでゆく。

ここを初めて読んだ時の衝撃と言えば。自分が八一を何も理解していないと痛感すると同時に、八一の革新性と氏の圧倒的な考察力に叩きのめされた。氏は八一の歌を文学史上に次のように位置づける。

明治以来、和歌を近代化する試みで、「心を種」とする抒情詩の伝統から、「物を種」とする事物詩の将来を見据えたのは、會津八一の奈良詠草や武蔵野の自然詠であった。対象に触発された主観や感情を読むというより、対象そのものを詠む。救世観音の歌は、抒情詩の限界を超える事物詩の成功例として、時代を画する作となった。

この一節を書くために、氏はどれ程長い間格闘されたことだろう。氏の八一学はここに見事なフィナーレを迎えたと私は見る。(後略)

不喋斎と号された氏の思い出は尽きない。御茶ノ水や神田界隈を歩いていると、ふと氏に会うのではないかと思う時もある。

今夜は氏が愛聴されていたディヌ・リパッティの演奏をかけて、氏を偲ぶことにしよう。

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「人格から発した思想」

2019年01月07日 | 日記

哲学者の宇都宮芳明氏(1931-2007)は、八一の熱心な読者であられたという。

氏は、東大卒、北海道大学の教授で、カントがご専門であった。



1978年5月号の『理想』に、「一冊の本」という書評コーナーがあり、氏は会津八一の『自註鹿鳴集』の魅力を書いておられる。

印象的な箇所を引用しよう。

「私は会津八一という人物の魅力に抗しきれなかったのである。」

「八一がまた門弟たちを奈良の風光を愛するのと同じように深く愛していたことも疑えない。」

「八一はひととものの別を問わず、すべてに愛を注いだ人であった。それは生の肯定から生じてくるおおらかな愛である。八一が自分で定めた「学規」の第一条に「ふかくこの生を愛すべし」とあるのも、そのあらわれであろう。」

「八一は日々「学芸を以て性を養ふ」ことを心掛けた努力型の人間である。性を養うとは広義での倫理的な人格の陶冶であって、八一の作品はすべてこの人格の表現として緊密に結び合い、そこにまざまざと「会津八一」という人物の現在を告げるのである。人格と結びつき、人格から発した思想を哲学とよぶならば、八一はまたすぐれた意味で哲学者であったと言ってよい。詩作と思索の関係についての面倒な議論はそれこそ専門の哲学者にまかせることにして、私は八一の鹿鳴集を躊躇なくすぐれた哲学書に数えることにした。」


會津八一の歌と人格の魅力を簡潔な筆で表現されており、見事な書評と感動した。八一にあっては、歌も書も書簡文も研究もすべてが人格の大成と連関しているが、それをさらりと分析してみせるところに、氏の優れた力量が表れているように思う。

宇都宮氏と話がしてみたかった。

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