新潟県立大の伊藤潤一郎氏の新著に、八一の随筆が引用されていることを知り、さっそく読んでみた。伊藤氏はフランス哲学の研究者であり、なぜ八一に触れているのか、不思議だったのである。
89年生まれということは平成生まれであられるだろう。
引用されているのは、八一の『自註鹿鳴集』の序文である。
およそ文芸に携はるもの、その生前に於て江湖の認識を受くるの難きは、古来みな然り。予齢すでに古希を過ぎたりといへども、今にして之を聞くは、むしろ甚だ早しといふべし。
この一節を引いたうえで、伊藤氏は次のように述べておられる。
「・・・古希を過ぎてもなお社会的承認を得るには早すぎるとみなす八一の姿勢からは、最長でも一〇〇年ほどの人間の一生とは異なる時間が文芸には流れているという認識が垣間見える。ひらがなの分かち書きで奈良を詠った歌人にとって、みずからの筆先が悠久の歴史とつながっているのは、たしかな実感だったにちがいない。」
まさしく伊藤氏の指摘される通りであろう。ただ同時に、八一は「現代に歓迎されざるものが、永遠に伝わるわけはない」(「文化の意義」1946年)とものべ、生前の評価にもこだわる側面もあった。評価され、名声を得たいというより、文学史上における正確な理解を得たいというのが、八一生前の願いであったろう。
愛好にとどまらない、深い理解を今後とも目指していきたいと思う。