来たる3月13日から、5月10日の日程で、特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」が、東京国立博物館 本館特別4室、特別5室で開かれる。法隆寺の至宝ともいうべき、金堂壁画と百済観音が東京にお出ましになるのは、24年ぶりであるという。在京の仏像ファンとともにこの慶事を喜びたい。
※2011年に撮影した大英博物館の百済観音(複製)
およそ近代の文学者で、法隆寺に最も深い関心を寄せたのは、會津八一をおいてほかにないのではないか。壁画についても、百済観音についても、和歌を詠み、かつ美術史家として深く研究したことがよく知られている。そこで今日は百済観音と八一の関係を、簡単にこのブログで素描してみたい。
ほほゑみてうつつごころにありたたすくだらぼとけにしくものぞなき
一首はもちろん百済観音像を詠む。八一が初めてこの仏像に出会ったのは、法隆寺ではなく、奈良博物館であった。歌の意は、「ほほえみながら、うっとりとした心持ちで立っておられる百済観音に及ぶものはない」と、百済観音の姿をシンプルに賛美する内容である。
八一自身は「私は、この像の幽間の顔面の表情と、静寂を極めた姿態の底に動く、大きなリズムの姿に感じて、至高の芸術と讃歎した」と、説明する。
ちなみ堀辰雄は昭和16年に、八一の「鹿鳴集」を携え、奈良を巡り、こんな一文を草している。
「僕の一番好きな百済観音は、中央の、小ぢんまりとした明かるい一室に、ただ一体だけ安置せられている。こんどはひどく優遇されたものである。が、そんなことにも無関心そうに、この美しい像は相変らずあどけなく頬笑まれながら、静かにお立ちになっていられる。……しかしながら、此のうら若い少女の細っそりとしたすがたをなすっていられる菩薩像は、おもえば、ずいぶん数奇なる運命をもたれたもうたものだ。――「百済観音」というお名称も、いつ、誰がとなえだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから将来せられたという伝説もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうっとりと下脹した頬のあたりや、胸のまえで何をそうして持っていたのだかも忘れてしまっているような手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちょいと軽くつまんでいるきりの水瓶などはいまにも取り落しはすまいかとおもわれる。」
下線部あたりは、八一の歌から得た視点だろう。堀は八一のよき理解者だった。
来たる展覧会で百済観音を拝する際には、ぜひ八一の一首を念頭に置いていただきたいと思う。
壁画と八一との関係は、別に稿を改めたい。