去る1月25日に上梓された、村尾誠一著のコレクション日本歌人選068『会津八一』(笠間書院)を読んだ。
笠間書院のHPによる村尾氏の略歴
1955 年東京都生。学習院大学文学部卒業。東京大学大学院修了。博士(文学)。現在、東京外国語大学大学院教授。著書に『中世和歌史論 新古今和歌集以後』(青簡舎)、『残照の中の巨樹 正徹』(新典社)、『新続古今和歌集』(明治書院)等。
同コレクションは古代から近代までの歌人を取り上げ、その作品を50首前後紹介するという啓蒙的な書を目指しているらしい。八一の歌集を新本で手に入れるとしたら、岩波文庫の『自註鹿鳴集』か『會津八一 悠久の五十首』(新潟日報事業社)くらいしかないので、本書の出版は新たな八一ファンにとってよいことだと思う。
本書では、八一の50の歌と俳句(1句のみ)を紹介し、漢字かな交じり表記と口語訳を付し、その後に村尾氏の解説文を付けるというスタイルをとる。解説は平易、高校生なら十分に理解できると思われるほどかみ砕いている。
内容は出版されたばかりなので、同書を直接読んでほしいが、一部を引用させていただきたい。
八一が法隆寺の救世観音を詠んだ「あめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほゑむ」の一首を、村尾氏は次のように訳出なさっている。
この天地に自分がひとりだけいて、いまここに立っているような淋しさを、あなたは微笑みながら示していらっしゃる
そして解説文に「さびしさ」は、何よりこの仏像の微笑みの持つものであり、八一の持つそれが、仏像の前に立つことで一体化したところにこの歌だけがもつ抒情があり、魅力があると評しておられる。
この歌の解釈は長く定まらなかった。というのは、歌語の「われ」とは、だれを指すかという問題が決着をみなかったためだ。
「われ」とは、A「作者會津八一」、B「作者會津八一と観音」、C「観音」のいずれを指すか、読みが割れていた。(このアルファベットの分類は私が便宜的に用いただけで、アルファベットに意味はない。)長く、Bと解釈するのが一般的だったが、喜多上の比較文化学的な解釈により、「われ」とは、C「観音」との解釈に落ち着いた。
村尾氏の解釈は、このABC分類に当てはめると、Bに相当するようだ。
本書を通じ、新たな八一ファンが生まれることを期待したい。八一の書を携えて、大和路を巡ることほど楽しいことはない。また奈良に行きたくなった。