《落日菴執事の記》 会津八一の学芸の世界へ

和歌・書・東洋美術史研究と多方面に活躍した学藝人・ 会津八一(1881-1956)に関する情報等を発信。

1983年5月2日の毎日新聞夕刊

2020年01月27日 | 日記
1983年5月2日の毎日新聞夕刊が、先日筆者のもとに届けられた。差出人は、喜多上氏のご令弟である。

一面に、高額納税者の名があるのは懐かしさを超えて、苦笑せざるを得ない。

ポーランドの民主化も始まっていた。当時の首相は中曾根康弘氏だった。

話を本題に戻す。
文化欄に30代だった喜多上氏の寄稿、「蘇る 会津八一の書簡 趣味と専門の一致説いた大泉氏宛ての三通が白眉」が掲載されている。

この寄稿は、會津八一の名書簡として名高い、大正年間の大泉博一郎氏宛の書簡が、八一の高弟であった加藤諄教授の紹介で、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に寄贈されたことを記念したものだった。少し本文を引いてみよう。

・・・学芸の人である前に一個の人間であれ、という人生の平凡な真実を、半生の感慨を込めて説いた。これは、漱石晩年の倫理観につながる・・・

・・・一つの分野に専心し、一定の深さに達すれば、他は推してわかるという。近代の分業主義が引き起こした疎外の中で、八一は人間を分割されないトータルな存在と捉え、趣味の修養に、人格形成と創造の喜びがあると考えた。彼の歌・書・学問が、従来の研究方法や既成の学問の枠内では捉え切れない幅と奥行きをもつのもそのためである。大泉宛て書簡は會津八一の先見性と独自性を余すところなく伝えて、こよなく美しい文章となっている。

喜多氏は、この後、生涯をかけて、大泉書簡を追究し、八一の思想を丸裸にする解釈を示した。この記事はその萌芽なのだろう。

貴重な当時の新聞をご寄贈くださった喜多立氏に心より感謝申し上げたい。

八一音韻の成り立ち 『會津八一の墨戯』から

2020年01月26日 | 日記



料治熊太著の『會津八一の墨戯』(昭和44年 アポロン社刊)は、今では稀覯本の感がある。年配の八一ファンは知っておられようが、なかなか古書店でも見ることがない。

會津八一を尊敬し、わざわざ落合に家を求めて、師の傍にいようとした人だけに、八一の肉声をまざまざと伝えている。こんな本はそうない。吉池進著の「會津八一伝」くらいだろうか。読み物としても面白いが、資料として価値がある。

八一の歌論が読み取れる箇所を引いてみよう。ここがこの本の白眉である。

「かすがのにおしてるつきのほがらかにあきのゆふべとなりにけるかも」にしても、一見なだらかな歌調から放心のままに歌いすえたかにみえるが、この歌一首つくるにも、先生は春から秋にかけ半年の月日を考えて過ごされた。・・・はじめは結句を「かな」とむすんでいたのであったが、「か」も「な」もア系の開口音で、音韻としては、声を発すれば叫びとなる。この歌の場合、「かすがの」「ほがらか」のごとく、上の句に明るい陽性のア系音が続き、結句も又ア系音で結ぶと、歌韻の上で抒情がやや浮き上り気味になる。そこで、「かも」と同じ開口音でも陰性のオ系音「も」の沈んだ韻音で結句されたのであった。(同著73ページ)

「南京新唱」の成立前夜の八一は、こんなことを料治氏に話していたのだろう。八一の音韻の秘密がわかる、数少ない一文である。

ちなみに富岡多恵子氏もこの箇所に早くから注目し、一文を草されている。文藝春秋刊の「さまざまなうた 詩人と詩」によって、それを知った。