綿あめプーさん&あるび

綿飴ぷーさんの「けやきの会」(長岡市にある障がい者関連団体)と白馬山麓の実家の話題&アルビッレクスサポ日記

軽く400km

2012年10月14日 | Weblog
今日はお仕事の話題です。

先日路肩の土砂崩れで通行止めになった北陸道鬼舞(きぶ)を無事通過し



来週17日に開店する原信魚津店(富山県魚津市)の開店前見学会に行ってきました。





30分前から近所の方々がお待ちになっていました。




環境保全の取り組みや、様々なサービスのご紹介



報道機関の方もお見えになってました。







ベーカリーや青果、総菜、肉、魚、日配品などの商品試食も沢山あって
「昼ごはん食べてこなきゃよかった」とか「お腹いっぱいです」とか

鮮魚などの作業室や冷蔵してある生ごみ庫もご紹介。



今日は600人弱の方々から見学していただきました。

魚津店は17日開店です。


おまけですが、北陸道の上下線、越中境パーキングには同じ芭蕉の句碑がありました。


上り


下り



何度も休憩に入ってますが、やっと今日気が付きました(・・*)ゞ


さえ& そうま バトル in bath

2012年01月31日 | Weblog
Sママさんからお約束の動画が送られてきました。

それがこれ


(クリックでyoutubuへ)

さえちゃんは発達遅滞があって、言葉がうまく話せなかったのですが、歌が好きなんです。

で、歌ってるところを撮影して、送ってというオーダーだったのですが・・・

お風呂で撮影したら、そうま君も一歩も譲らすヾ(- -;)
まあまあ姉弟仲良く元気で良かった(^^♪

おまけの画像もありました(^_-)-☆







ぷーじい、ぷーばあ

2009年07月24日 | Weblog
今日の0時半に新潟のI叔父が無くなりました。
冬から覚悟していたとはいえ、やはりさびしいです。
叔父達はみんなぷーさんをかわいがってくてましたが、
22歳のときに無くなった相模原のK叔父、先月無くなった糸魚川のM叔父に続いての逝去でした。
I叔父はぷーさんが小学生のときの夏休みにお世話になってから、
高校入試では明訓高校に誘ってもらったり
高校時代に新潟の予備校に通わせてもらったりして大変お世話になってきました。
20年も前から若年性アルツハイマーの症状が出て、叔母の看病で頑張ってましたが、
ついに逝ってしまいました。

さて、今朝未明からぷーさんもその親族とお葬式の打ち合わせしてて、
今日はこれまで3回長岡新潟を往復しました。
出来なかった恩返しをしたいとの気持ちです。

ぷーさんは10年程前に葬儀委員長見習いから入って、
いままでに6,7回お葬式を仕切ってきました。

今回はほぼ身内だけのお葬式なので喪主が表面になって仕切りますが、
何しろ40そこそこですし、お葬式自体の経験も少ない従兄弟です。
そのためぷーさんは全面サポート体制で臨んでます。

ぷーさんのお師匠さまはぷーじいです。
最初の葬儀委員長のときには、こと細かにマニュアルっぽい文書を作ってくれました。
それこそ挨拶まで完璧に用意してくれて、やらされました。
でも、葬式は準備の無い中で突っ走るわけですから、想定外の連続に直面します。
ついこの間までは「準備がなってない」といつも叱られてましたが、
先月のM叔父の葬儀には始めてほめられました。
「一人前になった」とぷーばあに言ってたそうです。
じい、ばあ感謝してます。ありがとうございました。

今日もお師匠さまには何度も電話してわからないことを聞きました。
その都度丁寧に教えてくれました。
ありがとうオヤジさん。
今度は、ぷーさんが、従兄弟たちにノウハウを伝えてまいります。



ドルフィンズ二葉さんへ

2009年07月19日 | Weblog
コメントありがとうございました。
とってもすばらしいチームだし、全国制覇目指して頑張ってくださいね。
それとサポママさんがすごいし、M田コーチもすごいように思います。
もちろん選手達も!
お願いがあります。
DVD見てみたいです。
あの感動を他の方にも見てほしいです。
もちろん代金じゃないか・・・カンパ送りますから全国大会遠征費に使って下さい。
連絡先教えてくださいませ。


八王子に行ってきました。

2009年07月19日 | Weblog
昨日横スタ後にしてぷーさんは息子のいる八王子に行きました。
八王子についてもちらほらアルビシャツのサポがいて心強かったです。
昨日はさすがに疲れれて・・・アパート着後シャワーして

今朝は9時くらいに二人とも起きて活動開始。
久々に息子の元気な姿見て安心しました。

事前に何か欲しい物あれば、買いものに行こうと連絡してあったのです。

まずはホームセンターへ行きたいと言う。

で、
買物は何かと思ったら、
洗剤、トイレクイックル、ハンガー・・・フライパンなど7千円あまり。

次にどこ行きたいかと言えば、「スーパー」

で、近くのダイエーへ

そこではいきなり、にんじん、たまねぎ、じゃがいも、調理油、包丁、玉子、ひき肉・・・


「おいおい、今日は丑の日だからうなぎは?」
「いらない」
その他様々な食料買い込んで、ビール1箱も買って、えっちら汗かいて、歩いて帰りました。


服とか買いたいものはないのかな・・・

「昼ごはんは何食べたい?」
「近所で行ってみたいとこがある」とまた蒸し暑いなかをとぼとぼ・・・
なんとラーメン屋さん
ステーキとか焼肉じゃあなんかい!?

チャーシュー麺食べて、二人でビール1本飲んで帰ってきました。
なんとまあ・・・想定外の買物ツアーでした。

アルコールの腕は上がったみたいです。

それと想定外だったのは金髪でしたね。
まあ、つつましく堅実な自炊生活だし、就活始まるまでだから大目に見ましょう


天地人を語る

2009年06月18日 | Weblog
火坂雅志先生が、長岡市の講演会でお話された内容に感動したので、そのエッセンスを書いてみます。

上杉謙信はご存知の戦国武将ですが、特徴が2つあります。
一つは経済に明るかった。当時の越後は戦国の中でナンバーワンの経済力を誇っていました。金山銀山の開発や新田開発、殖産興業としての藍蘇による越後上布あるいは直江津港を使った貿易などで経済力を強化していました。
二つ目は「義」をテーマとしていました。当時は下克上と言われるように相手を出し抜くことや暗殺、謀略が当たり前の中で、正義、信義、義理人情の義を一国の統治に当たっての理念に据えました。これによって求心力が生まれ、多くの優秀な武将が集まり、上杉軍団という強力な組織が出来ました。
上杉謙信は経済と義という理念を両立した稀有の武将でした。

上杉軍団は、当時の武田軍団と並んで、織田信長や徳川家康の軍団よりも強かったと思います。例えば、徳川家康は信玄上洛の前に三方ヶ原の戦いで信玄に一蹴されています。その後信玄が逝去して後、信長は長篠の合戦で武田勝頼に勝利しましたが、信玄存命中は武田を大変恐れていました。一方武田信玄と上杉謙信がライバルであったことは皆さんご存知のとおりで、川中島の5回に上る闘いで互角の戦いで決着が着かなかったことを見てもわかります。

<解説>三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人(うち織田信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康の歴史的大惨敗であり唯一の敗戦として有名な戦である。

さて、直江兼続は上杉謙信の実姉・仙桃院の実子、景勝の小姓として、春日山城で謙信から薫陶を受けました。上杉謙信が49歳で急死後、御館の乱(おたてのらん)で、その家督をめぐって謙信の養子である景勝と景虎(実父は北条氏康)が戦い結果的に景勝が勝つのですが、この時には景勝は24歳、兼続は19歳でした。

兼続の使ったといわれる「愛」という字を前立にあしらった兜が米沢市の上杉神社稽照殿に伝わっています。この「愛」の字を使った理由については、2説あり私も迷っていました。天地人を書きはじめてからも迷っておりました。今日はこれについてお話したいと思います。

多くの歴史の先生が言われるには、上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、当時、神名や仏像を兜や旗などにあしらう事は広く一般に行われていたことから、「愛染明王」または「愛宕権現」の信仰を表したものだという説が一般的です。
もう一つが、「仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われ米沢に伝わる言い伝えです。

さて、悩みながら、調べながら執筆していきました。
まず、謙信の語録を納めた書物(北越軍談 謙信公語録?)で「愛」を発見しました。
その中には、最初に、「天の時、地の利に叶い、人の和とも整いたる大将というのはまず古今いない」という記述があります。私の「天地人」というタイトルはここから使いました。
2と3は省略して、4.に大将は強くなくてはいけない。しかし、それだけではダメで、仁義礼智信がなくてはいけない。とあります。仁は慈愛をもって民を憐れむ、愛民という思想です。

また、長野県の佐久市近代美術館には、元々中野市の佐藤美術館から寄贈された謙信の大馬印が保存されています。金地に赤の日の丸の巨大な馬印です、本物に間違いないと言われています。このほかにも軍旗、旗指物が保存されています。
その旗指物、テレビの合戦シーンでおなじみの毘沙門天の「毘」一字のものや、縦長の指物に一文字「愛」と書かれたものがありました。上杉謙信の軍旗の中にすでに「愛」はあったのです。

皆さんご存知のことと思いますが、新渡戸稲造の名著『武士道』。原文は英語なのですが、その中に武士道を支える柱として2つのことが書かれています。
一つは義でもう一つは仁愛です。義は今では義理チョコなどと使われますが、元々は崇高な言葉です。仁愛は思いやる、情けという意味ですが、漢語の教授にお聞きしたら、仁と愛は同義語を重ねたものだそうです。

上杉謙信やその考えを引き継いだ直江兼続は江戸時代に固まった武士道を大きく先取りした人物であったと思います。また当時の越後はそれを可能にした豊かさ、文化レベルを持っていました。

これらのことから、私は今では、米沢の人たちが「愛」は仁愛の愛民の意味だと言い伝えているのが本当ではないかと思っています。

さて、織田信長から豊臣秀吉、その後、徳川の世に移っていく過程で、徳川家康にとって、会津を拠点としていた120万石の上杉(当時№3の巨大さ)はいかにも恐ろしく、邪魔だったと見えて、難癖をつけますが、直江兼続は有名な直江状を送ります。このときも、兼続は主君景勝に対して「義」を捨てては一国の経営は成り立たないと説き、一戦辞さずと準備します。陣をしいて待ちうけますが、石田三成のクーデターで徳川軍が引き返してしまいます。もし、会津上杉征伐と呼ばれる戦いが起こっていたら、上杉が勝った可能性もあったと思います。それほど、上杉は石高以上に殖産興業によって強大であり、周囲の戦国武将に信用がありました。

関が原の戦いで徳川家康はほぼ日本統一を果たしました。兼続はそれを見て、和平に動き、上杉は米沢30万石に移封となりましたが、このとき、家臣団を整理せずにそのまま上下一体となって、米沢一国の経営にあたります。ここから越後の謙信時代に薫陶を受けた、義と愛の経営、殖産興業(金銀こうぞ紅花藍蘇)につとめ豊かな国造りに励み成功を収めます。
最近有名になった上杉鷹山ですが、この鷹山は兼続の経営を引き継いで、真似たことによって破綻に直面した米沢藩(30万石からさらに15万石に減封されていた)を立て直すことができたと言っても過言ではありません。

慶応義塾の創始者福澤諭吉の言葉に「胸に前垂れ、心に兜」があります。武士道と経済は一体であれとの意味だと思います。今の企業、経済界や政界に求められることではないかと思います。