小さな旅を愉しむための情報PLUS

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万治の石仏🙂😐😐岡本太郎や新田次郎が絶賛した砥川ほとりの石仏

2020-05-04 21:45:19 | 国内旅行

芸術家「岡本太郎」や小説家「新田次郎」が絶賛したことで、世に知られることになった「万治の石仏(まんじのせきぶつ)」は、「諏訪大社下社春宮」から徒歩約5分の「砥川(とがわ)」ほとりにその身を置く安山岩自然石を胴に持つ 高さ2.6m 胴回り11.85m 顔の長さ 0.65m 顔回り1.38m の石仏だ。
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名前の由来は「1660(万治3)年11月1日に造られた」と胴に刻まれていることによるという。言い伝えに、1657(明暦3)年 諏訪高島藩3代藩主「諏訪忠晴(すわただはる」(1639/寛永16年8月21日~1695/元禄8年3月2日の「諏訪大社下社春宮」への石の鳥居奉納の命を受けた石工が、この大きな石を加工しようと鑿を入れたところ、その石から血が流れ出たといい、祟りを恐れた石工が「阿弥陀如来仏」を刻み、石仏として祀ったことで「万治の石仏」が始まったという。
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現地の掲示に「万治の石仏はその名のとおり『万(よろず)のことが治(おさまる)』万治を『ばんじ』と読み 物事をばんじまるく治めて 願いを聞いてくれるありがたい石仏として 広く人々の信仰を集めて」いるとし、そのお参りの仕方が案内される。
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現地は整備が行き届き、かけがえない文化財「万治の石仏」を守る地元の思いがよく伝わるが、一方で整備の過ぎたるはかえって鄙なる造形の有り様を、通俗で奥行きのないものに貶めかねないと感じる機会にもなった。草生し土荒れることもある自然にあってこそ野趣に富み、その鄙なる造形が秘める素朴な力が発現されることもあるだろう。
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車での訪問は付近に駐車場がないので、「諏訪大社下社春宮」の駐車場を利用し、所縁ある「下社春宮」参詣とともに「万治の石仏」に回るのがおすすめだ。


手長神社🙂😐😐境内社「御頭御社宮司社」が鎮まる旧社格「県社」で「諏訪大社 上社」末社の神社

2020-05-04 21:17:12 | 神社仏閣

諏訪市上諏訪茶臼山に鎮まり坐す「諏訪大社上社」の末社で、旧社格「県社」神社本庁「別表神社」の神社だ。
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祭神は「諏訪大社」の祭神「建御名方命(たけみなかたのかみ)」祖神「須佐之男命/素戔嗚尊(すさのおのみこと)」の妃神「奇稲田姫(くしなだひめ)」の母神とされる「テナヅチ(古事記では『手名椎命』日本書紀では『手摩乳命』)」で、「建御名方命」に随従したとされるが、「建御名方命」以前より信仰されていたともいう。
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社の縁起については不明だというが、旧石器時代からの遺跡「手長丘遺跡」や「茶臼山古墳群」がある当地一帯の土地の守り神「産土神(うぶすながみ)」として古くから信仰を集めた境域で、現在も境内社「御頭御社宮司(おんとうみしゃぐじ)社」が鎮まっている。「ミシャグジ」とは諏訪地域で起こり、関東・近畿地方にまで及んだ民間信仰で祀られる精霊をいうが、まだ解明されていないことも多いという。
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古くは「手長宮」と呼ばれ、鎌倉時代以降は「下桑原の鎮守となったが、1591(天正19)年の「高島城」築城後は、その鬼門に位置することから「諏訪高島藩」家中の鎮護神として崇敬されたという。
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「拝殿」は「諏訪大社 下社秋宮」の「幣拝殿」造営で名声を高めた立川流初代「立川和四郎富棟(たてかわわしろうとみむね)」が、1788(天明8)年に44歳で建築に取り組んだという。当地が生んだ宮大工の名跡を知るうえでも、神詣でしたい社といえるだろう。