
港区高輪「萬松山 泉岳寺(ばんしょうざん せんがくじ)」は、福井県「吉祥山 永平寺(きちじょうざん えいへいじ)」と、横浜市鶴見区「諸嶽山 總持寺(しょがくざん そうじじ)」を大本山にもち、かつて板橋区「妙亀山 總泉寺(みょうきざん そうせんじ)」と、港区「萬年山 青松寺(ばんねんざん せいしょうじ)」とともに「江戸三箇寺(えどさんかじ)」に数えられる寺格だった曹洞宗の寺院だ。
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1612(慶長17)年に「徳川家康」(1543/天文11年~1616/元和2年)が、駿河の戦国大名「今川義元(いまがわよしもと)」(1519/永正10年~1560/永禄3年)の孫と言われる「門庵宗関(もんなんそうかん)」(1546/天文15年~1621/元和7年)を招いて、現在の警視庁周辺「外桜田」に創立したというが、1641(寛永18)年に焼失し、高輪の現在地に移転したという。
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時の将軍「徳川家光」(1604/慶長9年~1651/慶安4年)が、「毛利(もうり)」「浅野(あさの)」「朽木(くつき)」「丹羽(にわ)」「水谷(みずのや)」の5大名に復興を命じて以来、「浅野家」と「泉岳寺」の「檀越(だんおつ/だんえつ/だんおち)」としての関係が始まったという。
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境内には、江戸城内刃傷事件を発端に、吉良上野介邸討ち入りに至る仇討「赤穂事件」で知られる顛末によって、即日切腹となった播州赤穂藩第3代藩主「浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)」(1667/寛文7年~1701/元禄14年)と、その夫人「瑶泉院(ようぜいいん/ようぜんいん)」(1674/延宝2年~1714/正徳4年)や、「大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお/よしたか)」(1659/万治2年~1703/元禄16年)以下45名の「赤穂浪士」(一般に「四十七士」と呼ばれるが)の墓所がある。
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加えて、遺族が遺体を引き取った「間新六光風(はざましんろくみつかぜ)」、 赦免された「寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)」、 討ち入り前に自刃した「萱野三平重実(かやのさんぺいしげざね)」3名の埋葬をともなわない供養塔なども並ぶ。
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その国指定の史跡には、史実「赤穂事件」における「赤穂浪士」への墓参なのか、「仮名手本忠臣蔵」をはじめとする脚色された「忠臣蔵」に重ね合わせた「赤穂義士」への墓参なのか、途切れることのない参拝者には、海外からの来訪者も多く、墓前には焼香の煙が絶えることなく立ち上る。
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なお同寺は、第二次世界大戦の戦禍で、「山門」「義士会館(現在の『講堂』)」などを残して焼失し、1953(昭和28)年の「本堂」再建に始まる伽藍・境内の整備が、現在も続けられているという。
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また、文京区本駒込「諏訪山 吉祥寺 旃檀林(きちじょうじ せんだんりん)」、港区「萬年山 青松寺 獅子窟(ししくつ)」とともに、僧侶育成に取り組む修学所「江戸三学寮(えどさんがくりょう)」で、現在の「駒澤大学」の前身になったという。

