山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

アンソロジーの劇

2011-06-23 23:16:23 | No.56「KAGUYA」
アンソロジーはギリシア語のアンソロギアanthologia(花を集めたもの)に由来する。・・・その意味では今まで取り組んできた「KAGUYA」は妖怪を集めたアンソロジーの劇だ。
この劇は昨年の12月に始まった。そして今年の5月。次に向けてはKAGUYAシリーズの第3弾という訳だ。

「日本の昔話」を劇団夢桟敷が取り組んだらどのような劇になるのだろう?と単純に興味本位からだった。もう一つ、海外公演を意識した。日本の伝説を異型としてデフォルメする。そして日本的とは何か。・・・日本の妖怪は美しい。これは「美しき日本」とは違う。現実に醜さを感じる時、劇は醜さの裏側から美しさを放つ。

リアリズムや判りやすさを度外視した“衝動”をコラージュ(構成)する劇作りがこの32年で定着してきたように思う。つまり、パトス(感情)を解放する劇の在り方を求めてきた。物語に趣を置くことではなく、むしろ意識的に物語を壊すこと。ここに想像力の自由さ広がりを感じていた。
物語を壊すことは、もう一つの物語を作らなければならない。批判で終わってしまうことは創造的ではない。

「KAGUYA」は挑戦している。興味本位から「日本の伝説」に疑問すら発見する劇へ。古きメッセージを今に蘇らせる新しい解釈とは・・・KAGUYAにはある。妖怪たちは腐った場所に棲みつく。人間に勇気を与えようとする。世直しのメルヘンである。

今回の作者である夢現は登場人物に<かぐや姫>の他に<桃太郎><金太郎><浦島太郎><瓜子姫>などを並べた。浦島太郎を除いて、みんな人間から生まれていない。出生の秘密に黄泉、あるいは異次元の世界からやってきた妖怪集団としてのKAGUYAを位置付けた。

何度やっても謎は深まるばかり。だから、終わらないのである。演劇公演を戯曲の発表の場とは思わなくなった。行間に肉体を表す。肉体は作品ではない。役者という肉体には生きざまが表れる。
稽古場は役者としての身体作りを繰り返している。終わらない。永遠に終われない。



■6月23日(木)清水市民センター

梅雨の隙間、今日は一日中うだるような暑さだった。稽古がなければ生ビールで喉を潤すところだが・・・。演劇が健全な日を提供してくれる。酒に溺れることを予防してくれる。

只今のところ、新人さんKARENちゃん(中1)とMANAMIから目が離せない。5月にデビューした犬彦さんも!・・・イメージとしては役を思い浮かべているのだが、どの場所でどのように加えるか?具体的になっていない。
集団的に高揚してくると、必然のようにココだ!が見える。唐突に割り込む劇のリズムになる。
だが、今のところ、基礎的な訓練がつづく。

私たちの基礎トレーニングは即興性を問うパターンから始まる。だから、稽古中は遊びのようでもあり笑いが耐えなくなる。プーッと吹き出してしまう。一見、いい加減にしろ的な「ふざけんな」場面に見える。
私は「ふざける」ことも劇作りには必要だと思っている。一生懸命ふざけること。その一生懸命さに感情が揺さぶられる。喜怒哀楽が垣間見られる。役者たちは、それを確認し拾って自分のポケットに納めていく。新人さんたちは、当然、ポケットが小さい。小さいからこぼれ落ちることもある。
そのこぼれ落ちるモノに宝のようなものを見つける。

私は何百の宝を見届けていたのだろうか。気が遠くなる。

今日の稽古でもそれを感じる。数多くある劇団の中で夢桟敷に関わってくる人たちを大切にしたい。
期待されているのだ。期待しているのだ。頑張ることは恥ずかしいことでも悪いことでもない。
過ぎることもある。消耗することもある。
だが、役者たちは過ぎること、消耗の向こう側に向かっている。そのエネルギーがあるから生きていけるのだろう。

マジックである。演劇は手品でもある。見えた。今後の稽古へ。

(注)写真は6.9仮面工房さんとの合同稽古終了後の「はい、ポーズ」より。