Butoh編
■5月30日
「辻本知彦&桂勘 ワークショップ」に参加した。・・・といっても、私は見学。一緒に行った田中幸太君、mamiちゃん(タップダンサー)は肉弾でオドル。いい汗を流して、気持ち良かったねぇ。わたしゃ、血が騒ぎっぱなし!一緒に身体を使っていたら、今はガタガタになっていたでしょう。(笑)
山鹿市八千代座近くの中央公民館が会場。定員20名が30名を越えていた。バレエ、ヒップホップ、タップ、コンテンポラりーなどdance関係者が集まっていた。小学高校生、大人たち・・・大半は女性。
「暗黒舞踏」の映像(創始者=土方巽)NHKドキュメントなどを見ながらのレクチャーも受ける。
欧米アジアではメジャーになっているbutohだが、山鹿での参加者はカルチャーショックを受けた様子。
夢桟敷の稽古場では、このワークショップに直結して更なる進化をするするでしょう。
田中幸太の後へツヅケ!・・・彼は一発で変わったよ。
詳しく知りたい方は稽古場へ来るべし。
http://www.geocities.jp/yumesajiki/keiko-yotei.html
■Ki「木」公演
八千代座100周年記念事業ーバルセロナフェスティバルGREC共同作品として上演されました。
時◎6月4日、5日 午後2時開演
場◎八千代座 http://www.yachiyoza.com/
スペインを代表するフレデリック・アマト氏、セスク・ジェラベル氏、今回のワークショップ講師(辻本知彦&桂勘、両氏)、藤間勘十郎氏、歌舞伎長唄囃子など邦楽生演奏etc、コラボレーションが見ものです。
参考資料(映像:今回のワークショップ講師のお二方)
①桂勘氏
http://www.youtube.com/watch?v=7orrnH-18BE
②辻本知彦氏(途中で上着脱ぐ方)
http://www.youtube.com/watch?v=RUxr2eGu710
■6月2日
先日5月30日(日)に八千代座でコンテンポラリー・ワークショップを見学してきましたが、その際、レクチャーで「暗黒舞踏」の流れなどを学習することになりました。
暗黒舞踏の創始者である大野一雄氏のこともお話に出てきました。
まさに、その直後です。・・・氏がお亡くなりになったことを知りました。
合掌。
以下【新聞記事より転載】
103歳の世界的舞踏家、大野一雄さん呼吸不全で死去。
日本独特のダンス「舞踏」の創始者の一人で90歳を超えて現役で踊り続けた、大野一雄(おおの・かずお)さんが1日午後4時38分。呼吸不全のため亡くなった。
103歳。北海道函館市出身。
1929年にスペインの舞姫:アルヘンチーナの来日公演に衝撃を受け、ダンスを始めた。
その後召集されて中国・南方戦線で多くの死を目撃。
「死と再生」は後の主要モチーフとなった。
復員後49年に初リサイタル。
50年代後半から前衛舞踊家の土方巽(ひじかたたつみ)と組んで、実験的な作品の発表を続け白塗り緩慢な動きすり足などを特色とする、舞踏を創出した。
77年にアルヘンチーナをたたえる「ラ・アルヘンチーナ頌(しょう)」を完成。
さらに「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮(すいれん)」「花鳥風月」などを発表した。
国際的に認められたのは80年の仏ナンシー国際演劇祭。
「ラ・アルヘンチーナ頌」を海外初演した。当時73歳。
老醜を表に出して全身に情念をにじませる踊りは、外見的な美に重きを置きがちだった西洋のダンス界に衝撃を与えた。
90歳を超えても欧米各国で公演。
ドイツのピナ・バウシュ、英国のリンゼイ・ケンプら、影響を受けた振付家やアーティストは数多い。
2000年に腰を痛め自力で立てなくなったが、
翌年からけいこ場で公演活動を再開。
大きな手を舞わせて生命などを表現した。
07年1月の100歳記念公演「百花繚乱(りょうらん)」にも車いすで出演した。
(~2010年6月2日/読売新聞記事転載。)
◆
世界的に活躍した前衛舞踏家の大野一雄さん(1日死去、享年103)。
九十歳を超えても車いすで表現を続けるなど、
強靱(きょうじん)な生命力にあふれた巨人だった。
大野さんを知る関係者からは死を悼む声が相次いだ。
日本体育会体操学校(現日本体育大学)在学中、二十世紀のスペイン舞踊の革新者ラ・アルヘンチーナの公演に感銘を受け、
舞踊家の道を目指す。
モダンダンスを学んだが太平洋戦争で中国、ニューギニアなどに従軍。
復員後、一九四九年、四十三歳の時、東京・神田共立講堂で初リサイタル。
その後、暗黒舞踏の土方巽さんと出会って舞踏に転換。
日本人の内面的な身体表現を重視しながら活動を展開。
「BUTOH(舞踏)」を世界に広めた。
九九年、米ニューヨークでの公演「20世紀への鎮魂」以後は、視力、体力ともに衰退。
歩けなくなると支えられ、立てないときはすわったまま、車いすで手だけ、踊りへの執念を燃やし続けた。
国内外で数ある活動の中でも印象的だったのは、二〇〇二年、新潟県十日町市の信濃川河川敷で、生け花作家・中川幸夫さんが企画した「花狂」。
ヘリコプターからチューリップ二十万本分の花びらを散らす中、すでに足が不自由だった九十五歳の大野さんがいすで舞を披露、数千人の観客を魅了して大きな話題となった。
◇
大野さんがたびたび舞台に立った東京・両国の「シアターX(カイ)」。
芸術監督の上田美佐子さんは、「認められたい、喜ばせたいというのが一切ない。命への無償の愛情をささげる人だった」
と振り返る。
舞台を終えても劇場ロビーで踊り続けた大野さんの姿が忘れられないという。
観客も皆帰らずシーンとなって見詰め続けた。
「サービスじゃない。踊ることが本当に好きだった。芸術は惜しみないもの。生きものの神髄に触れていた」
「土方さんとは同志だったけど底流には舞踏にとどまらない広い視野があった」とも。
海外では日本以上に神格化され評価が高かったという。
同劇場で公演がある際も多くの外国人ファンが訪れた。
「華やかで色気があってみずみずしい生命力。九十歳すぎてもすき焼きと焼き肉がお好きだった」という一面も。
晩年、車いすで公演したときは、右手だけで踊り舞台上で眠ったこともあった。
「大野さんしかできない独自の踊り。踊りながら、踊りたいものが出てくる。
天に昇られても、限りなく踊っておられるのでは。
命を踊ること。それは今の若い人にも通じると思う」
◇
二十代のころ初めて大野さんの踊りと出合ったという劇作家の唐十郎さんは、「すごいダンサーがいる、というので見に行った。
白塗りの脚がしなやかでメルヘンを感じた。ただうっとりと見入った」。
土方さんとは舞台でも付き合いがあった唐さんだが、
大野さんについては一観客として見守ることが多かったという。
「土方先生は論客、大野先生は寡黙な方。対照的だけどライバル以上の関係だった」と話す。
「どんな空間も踊り場にしてしまった。廊下や階段で、あの輪舞をもう一回見てみたい」と、“巨人”の死を惜しんだ。
(2010年6月3日/東京新聞:朝刊記事転載。)
■5月30日
「辻本知彦&桂勘 ワークショップ」に参加した。・・・といっても、私は見学。一緒に行った田中幸太君、mamiちゃん(タップダンサー)は肉弾でオドル。いい汗を流して、気持ち良かったねぇ。わたしゃ、血が騒ぎっぱなし!一緒に身体を使っていたら、今はガタガタになっていたでしょう。(笑)
山鹿市八千代座近くの中央公民館が会場。定員20名が30名を越えていた。バレエ、ヒップホップ、タップ、コンテンポラりーなどdance関係者が集まっていた。小学高校生、大人たち・・・大半は女性。
「暗黒舞踏」の映像(創始者=土方巽)NHKドキュメントなどを見ながらのレクチャーも受ける。
欧米アジアではメジャーになっているbutohだが、山鹿での参加者はカルチャーショックを受けた様子。
夢桟敷の稽古場では、このワークショップに直結して更なる進化をするするでしょう。
田中幸太の後へツヅケ!・・・彼は一発で変わったよ。
詳しく知りたい方は稽古場へ来るべし。
http://www.geocities.jp/yumesajiki/keiko-yotei.html
■Ki「木」公演
八千代座100周年記念事業ーバルセロナフェスティバルGREC共同作品として上演されました。
時◎6月4日、5日 午後2時開演
場◎八千代座 http://www.yachiyoza.com/
スペインを代表するフレデリック・アマト氏、セスク・ジェラベル氏、今回のワークショップ講師(辻本知彦&桂勘、両氏)、藤間勘十郎氏、歌舞伎長唄囃子など邦楽生演奏etc、コラボレーションが見ものです。
参考資料(映像:今回のワークショップ講師のお二方)
①桂勘氏
http://www.youtube.com/watch?v=7orrnH-18BE
②辻本知彦氏(途中で上着脱ぐ方)
http://www.youtube.com/watch?v=RUxr2eGu710
■6月2日
先日5月30日(日)に八千代座でコンテンポラリー・ワークショップを見学してきましたが、その際、レクチャーで「暗黒舞踏」の流れなどを学習することになりました。
暗黒舞踏の創始者である大野一雄氏のこともお話に出てきました。
まさに、その直後です。・・・氏がお亡くなりになったことを知りました。
合掌。
以下【新聞記事より転載】
103歳の世界的舞踏家、大野一雄さん呼吸不全で死去。
日本独特のダンス「舞踏」の創始者の一人で90歳を超えて現役で踊り続けた、大野一雄(おおの・かずお)さんが1日午後4時38分。呼吸不全のため亡くなった。
103歳。北海道函館市出身。
1929年にスペインの舞姫:アルヘンチーナの来日公演に衝撃を受け、ダンスを始めた。
その後召集されて中国・南方戦線で多くの死を目撃。
「死と再生」は後の主要モチーフとなった。
復員後49年に初リサイタル。
50年代後半から前衛舞踊家の土方巽(ひじかたたつみ)と組んで、実験的な作品の発表を続け白塗り緩慢な動きすり足などを特色とする、舞踏を創出した。
77年にアルヘンチーナをたたえる「ラ・アルヘンチーナ頌(しょう)」を完成。
さらに「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮(すいれん)」「花鳥風月」などを発表した。
国際的に認められたのは80年の仏ナンシー国際演劇祭。
「ラ・アルヘンチーナ頌」を海外初演した。当時73歳。
老醜を表に出して全身に情念をにじませる踊りは、外見的な美に重きを置きがちだった西洋のダンス界に衝撃を与えた。
90歳を超えても欧米各国で公演。
ドイツのピナ・バウシュ、英国のリンゼイ・ケンプら、影響を受けた振付家やアーティストは数多い。
2000年に腰を痛め自力で立てなくなったが、
翌年からけいこ場で公演活動を再開。
大きな手を舞わせて生命などを表現した。
07年1月の100歳記念公演「百花繚乱(りょうらん)」にも車いすで出演した。
(~2010年6月2日/読売新聞記事転載。)
◆
世界的に活躍した前衛舞踏家の大野一雄さん(1日死去、享年103)。
九十歳を超えても車いすで表現を続けるなど、
強靱(きょうじん)な生命力にあふれた巨人だった。
大野さんを知る関係者からは死を悼む声が相次いだ。
日本体育会体操学校(現日本体育大学)在学中、二十世紀のスペイン舞踊の革新者ラ・アルヘンチーナの公演に感銘を受け、
舞踊家の道を目指す。
モダンダンスを学んだが太平洋戦争で中国、ニューギニアなどに従軍。
復員後、一九四九年、四十三歳の時、東京・神田共立講堂で初リサイタル。
その後、暗黒舞踏の土方巽さんと出会って舞踏に転換。
日本人の内面的な身体表現を重視しながら活動を展開。
「BUTOH(舞踏)」を世界に広めた。
九九年、米ニューヨークでの公演「20世紀への鎮魂」以後は、視力、体力ともに衰退。
歩けなくなると支えられ、立てないときはすわったまま、車いすで手だけ、踊りへの執念を燃やし続けた。
国内外で数ある活動の中でも印象的だったのは、二〇〇二年、新潟県十日町市の信濃川河川敷で、生け花作家・中川幸夫さんが企画した「花狂」。
ヘリコプターからチューリップ二十万本分の花びらを散らす中、すでに足が不自由だった九十五歳の大野さんがいすで舞を披露、数千人の観客を魅了して大きな話題となった。
◇
大野さんがたびたび舞台に立った東京・両国の「シアターX(カイ)」。
芸術監督の上田美佐子さんは、「認められたい、喜ばせたいというのが一切ない。命への無償の愛情をささげる人だった」
と振り返る。
舞台を終えても劇場ロビーで踊り続けた大野さんの姿が忘れられないという。
観客も皆帰らずシーンとなって見詰め続けた。
「サービスじゃない。踊ることが本当に好きだった。芸術は惜しみないもの。生きものの神髄に触れていた」
「土方さんとは同志だったけど底流には舞踏にとどまらない広い視野があった」とも。
海外では日本以上に神格化され評価が高かったという。
同劇場で公演がある際も多くの外国人ファンが訪れた。
「華やかで色気があってみずみずしい生命力。九十歳すぎてもすき焼きと焼き肉がお好きだった」という一面も。
晩年、車いすで公演したときは、右手だけで踊り舞台上で眠ったこともあった。
「大野さんしかできない独自の踊り。踊りながら、踊りたいものが出てくる。
天に昇られても、限りなく踊っておられるのでは。
命を踊ること。それは今の若い人にも通じると思う」
◇
二十代のころ初めて大野さんの踊りと出合ったという劇作家の唐十郎さんは、「すごいダンサーがいる、というので見に行った。
白塗りの脚がしなやかでメルヘンを感じた。ただうっとりと見入った」。
土方さんとは舞台でも付き合いがあった唐さんだが、
大野さんについては一観客として見守ることが多かったという。
「土方先生は論客、大野先生は寡黙な方。対照的だけどライバル以上の関係だった」と話す。
「どんな空間も踊り場にしてしまった。廊下や階段で、あの輪舞をもう一回見てみたい」と、“巨人”の死を惜しんだ。
(2010年6月3日/東京新聞:朝刊記事転載。)
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