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先祖を探して

Vol.79 黒潮を超えてやってきた冊封使


見出しの『冊封使行列図(一部分)』は新国王任命の冊封の式典のために首里城に向う冊封使一行を描いた物。横22m50cmのなかには琉球人380名余、冊封使一行220名余、合計600名余の人々が描写されている。沖縄県立博物館蔵


冊封とは

冊封(さくほう)とは、各国の有力者が、中国皇帝から国王として承認を受けることです。そして、新国王の即位式をとりおこなうために、中国皇帝の命をうけた冊封使(さくほうし)がその国々へ派遣されました。
 
冊封使が琉球にはじめて訪れたのは、1396年の北山王・攀安知(はんあんち)の時とも、1404年の武寧(ぶねい)王の時ともいわれています。それ以後、琉球王国最後の王・尚泰(しょうたい)まで、およそ500年ものあいだ冊封制度は継続しました。

冊封使の一行は総勢400人にもおよび、琉球に約半年間も滞在したのだそうです。冊封使の任務は、先代王の葬儀である諭祭(ゆさい)と、新国王の即位式である冊封をおこなうことでした。これらの儀礼は首里城正殿前の御庭(ウナー)で盛大にとりおこなわれましたが、これには琉球王府の思惑があったようです。それは、冊封によって国王の権威を知らしめることと、進貢貿易を王府が独占することで経済力の拡大をはかるということです。事実、冊封使一行は多数の中国商品を持参しており、琉球王府はそれらを入手することで、東アジアにおける中継貿易国としての成功をおさめたのだそうです。


命がけの冊封使

明や清から国王認証のため琉球に来る冊封使は、福建省の福州を出て台湾の側を通り、尖閣諸島、久米島、慶良間島の島影を目印に沖縄にやって来たといいます。


  黒潮の流れ(「屋久島の気象・気候」のサイトから)

上記の地図で分かるように、明から琉球にやってくる時には、必ず黒潮の海を横切らなくてはなりません。この辺りは流れも速く、エンジンもついていない当時の帆船では大変に恐ろしい海域だったのです。
それでは黒潮あたりで波が風が激しくなった時、冊封使はどのような対策をしたのでしょうか。


黒潮対策

何と、「生きた豚と羊を1匹づつ(犠牲として海へ)投げ入れ、5斗の米粥をそそぎこんで、紙錢を焚いた。船では、鉦をならし、太鼓をうち、軍人たちは武装して、抜身の刀をかまえ、舷(ふなばた)から(海を)のぞきこみ、敵をふせぐかまえをした。これを長時間おこない、やっと(風と波は)やんだ。
犠牲の物をさかんに海へ投下したことと、武備に威厳があったことの二つで、救われたのだということである」(『汪楫 使琉球雑録』)。

どうでしょう。現代においては考えられないような情景ですよね。当時の人々はこの対策のおかげで黒潮に巻き込まれずに救われたと本当に信じていたのでしょうかね?
その様子を思いうかべると、失礼ですが何だか思わず笑が出てしまいます。
当時は黒潮=海の魔物という感じだったのでしょうね。必死に対策をされていたであろうに、ごめんなさい。
時代を感じる瞬間でした。


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