世之主が沖永良部の島主であった時代から琉球時代について、神奈川に住む叔母がこんな疑問をもっていました。
「小さな島で産物や産業がさほど無い時代に、ご先祖様はどのようにして富を得ていたのかしら?」
確かにそうですよね。北山の配下にあったとしても、当時は農作物が豊かに実るような土壌では無かったようだし、富を得るほどの産業や産物がある時代でも無かった。
北山や琉球から何か援助でも受けていたのか?
叔母は議員をやっていたせいもあって、そのあたりに疑問を持つのは普通なようです。私はといえば、王族=金持ちくらいの感覚しかありませんでしたので、叔母の一言で「そうだよな。いったいどんなことになっていたのだろう?」と思い立ち、早速調べてみることにしました。
そもそもの琉球といえば、明国との冊封制度で栄えた国です。昨日の記事「6月29日:黒潮を超えてやってきた冊封使」でも書いたように、明国と琉球の冊封使はあの魔物がいる黒潮を安全に超えるために、生贄などを与えながら武装して南海の海を行き来していたわけです。
世之主のいた時代の北山王も冊封をしていたようですので、その仕組みなどを調べてみました。
冊封の仕組み
中国皇帝に朝貢するために、あいさつ文と貢ぎものを運ぶ船のことを「進貢船」といいます。逆に朝貢してくる外国に対して、中国皇帝より国王であることを認めてもらうのを、「冊封」をうけるといいます。
中国皇帝からは朝貢品の返礼として、貢ぎものの倍以上の商品が琉球側に贈られます。そればかりではありません。進貢船には、貢ぎもののほかに、たくさんの琉球の特産品などが積つみこまれ、これらの品を中国で売りさばき、そのお金で中国の珍しい品物や高価な商品を買うことができました。進貢船を派遣することで、琉球は大きな利益をあげることができたのです。こうした進貢による中国との交易を「進貢貿易」(朝貢貿易ともいう)といいます。
中国皇帝からは朝貢品の返礼として、貢ぎものの倍以上の商品が琉球側に贈られます。そればかりではありません。進貢船には、貢ぎもののほかに、たくさんの琉球の特産品などが積つみこまれ、これらの品を中国で売りさばき、そのお金で中国の珍しい品物や高価な商品を買うことができました。進貢船を派遣することで、琉球は大きな利益をあげることができたのです。こうした進貢による中国との交易を「進貢貿易」(朝貢貿易ともいう)といいます。
何だかとても素晴らしいシステムだったのですね。中国の皇帝には頭が上がらないが、朝貢や貿易によって得られる膨大な富や属国としての安全保障のようなオマケを考えれば、琉球側にとってはかなりお得感に溢れたシステムだったのではないでしょうか。
硫黄という最上級な朝貢品
琉球からの朝貢品の1つとして、「2021年5月9日:冊封のために馬を飼育していた沖永良部島」で書いた馬があります。この馬も明国にとっては重宝された朝貢品ではありますが、硫黄も大変重要な朝貢品であったようです。
硫黄?温泉にでもするのか?そんな疑問が沸きますが、明国には既に鉄砲がありましたので、その火薬に硫黄が大量に必要だったわけです。
しかし硫黄をどこで入手? 琉球で硫黄が採掘できるの?
いえいえ、琉球本島では無理です。実は硫黄が採掘出来る素晴らしい場所があったのです。
その名は「硫黄鳥島」
沖縄本島の北部にある徳之島と沖永良部島を三角で結ぶ線上に、硫黄が採掘できる島があったのです。それを発見した当時の人々は凄いですね。
この硫黄鳥島は徳之島や沖永良部島に近いのに、鹿児島県ではなくて沖縄県島尻郡久米島町に属しているそです。
沖縄からは190kmもあるそうで、面積は2.5平方キロメートル、島の周囲は7.3kmということで火山活動度Cの活火山らしいです。
ここが琉球王国の時代には唯一の硫黄産地だったそうで、硫黄の採掘が行われ中国への進貢貿易に用いていたそうです。奄美群島が薩摩藩に併合された際、朝貢に支障をきたす恐れがあるため、そのまま琉球王国領として存続したようで、硫黄採掘は戦後になっても行われ、現在でもその採掘跡を認めることができ、1959年(昭和34年)に噴火のおそれがあるとして、全島民が久米島へ移住。1967年(昭和42年)にも噴火し、硫黄採掘の従事者も撤退。以降、完全な無人島となっているそうです。Youtubeなどで島内の動画が見れます。
沖縄からは190kmもあるそうで、面積は2.5平方キロメートル、島の周囲は7.3kmということで火山活動度Cの活火山らしいです。
ここが琉球王国の時代には唯一の硫黄産地だったそうで、硫黄の採掘が行われ中国への進貢貿易に用いていたそうです。奄美群島が薩摩藩に併合された際、朝貢に支障をきたす恐れがあるため、そのまま琉球王国領として存続したようで、硫黄採掘は戦後になっても行われ、現在でもその採掘跡を認めることができ、1959年(昭和34年)に噴火のおそれがあるとして、全島民が久米島へ移住。1967年(昭和42年)にも噴火し、硫黄採掘の従事者も撤退。以降、完全な無人島となっているそうです。Youtubeなどで島内の動画が見れます。
この硫黄鳥島を管理していたのが、沖永良部や徳之島の大親子だったのではないかと推測されます。琉球本土よりははるかに近い場所に両島は存在していますし、冊封船が明国に向かう際に、沖永良部を経由していた記録もあります。そのことで島の大親子たちは富を得ていたのではないでしょうか。
あくまでも私の推測の域ですが、可能性は十分にありますね。
色々なことが見つかるご先祖調査です。