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先祖を探して

Vol.282 直城 (5) デークを開墾

屋敷跡の畑の中に残っていた石垣について前回書きましたが、以前からずっと不思議に思っていたことがありました。
それは宗家の屋敷があったその場所です。石垣の残る畑は、確かに直城と呼ばれる場所で、宗家の土地ではありました。しかし世之主の伝承では、世之主が自害した時に二男と長女は乳母と一緒に徳之島に避難し、騒動が収まったあとに島に戻り、城の後方北側の丘に館を構えたということです。城を新しく直したので、その場所は直城と呼ばれるようになったいう伝承。
そうなれば、畑の場所にあった屋敷は丘の上ではなかったはずです。直城と城の丘の間の谷間になった場所だったわけですから、どうも伝承とは違うなという不思議感がありました。
口碑伝承というのはそういうもので、時間の経過とともに内容が変化してくるところもあるし、、、とは思っておりましたが、妙に納得がいかないところでもありました。

何か手掛かりが残されていないかとお爺様の記録から探していくと、そんな不思議を吹き飛ばすような情報が書かれていました。
それは、何と直城の丘からあの石垣の残る畑の地に降りてきていたのです。
7代目平安統惟雄の代の時です。惟雄は1797年生まれです。惟雄の父親である惟尹は1814年(41歳)に他界しているので、石垣の残る地を開墾したのは父親が他界して以降だと思われます。
この地には、デーク(ブウともいう)という竹が生い茂っていたようで、そこを開墾して畑とし、その後に宅地としたと記録があります。この畑は「デーク畑」と呼ばれていたそうです。

1400年代の世之主の二男が新しく城を構えた直城の丘から約400年後の1814年以降に降りてきていたのです。しかしなぜわざわざデークの生い茂った地を開墾してまで降りてきたのかは、これまた謎でした。
明治がだんだん近くなって近代化が進み高い所では生活がしにくくなってきたのか?そんな考えも巡っていましたが、これもまた新しい情報が思わぬところから入ってきました。

古城地跡(現在は世之主神社)付近に長く住まわれている古老によれば、惟雄という人の時代に、直城の丘が崩れて屋敷が流され、宗家は引っ越しをしたという情報でした。
惟雄の時代!? ご先祖様には惟雄が2名いますが、1名は現在の12代当主の父親ですから、この方の時代では無いと思われます。そう言い切れる理由は、この石垣が残る畑にあった屋敷から、別の場所に引っ越しをしたのは明治31年の大型台風以降のことです。この時はまだ11代の惟雄は生まれていません。
よって、やはり土砂災害にあったのは直城の丘に屋敷があった時で、その丘が崩れて、下の谷間の地を開拓して引っ越したと見れそうです。
またこの谷間の地の真ん中にあった宗の本家を挟んで東が東宗(アガリゾ)、西が西宗(イヒゾ)という屋号を持つ家ができたのも、7代目惟雄の弟であった曽健志の息子の代でありますから、ここは間違いないでしょう。


ご先祖様はやはり、400年もの間ずっと直城の屋敷に住んでいたのです。
今でもその土地と屋敷跡がそのまま残っていたらと思うと、自然災害や土地開発にちょっとだけ悔しさを感じます。

さて、この幻の直城の丘の屋敷については、まだ続きがありますので次回に。


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コメント一覧

りゅう
そうですね。ちょっと謝名親方的根性の片鱗がありますよね。私もその頑固さは受け継いでますが、でもやっぱり融和、赦し、を希求してます。
yononushi
りゅうさん
凄い逸話が残されているのですね。そのご先祖様のお話、何だか薩摩侵攻時の三司官であった謝名親方を彷彿させますね!
りゅう
琉家も、フェームンゾウから、より、平地の、マツンバレという所に屋敷を移動してます。
そこは、何となく芝地になっていて、弓矢の練習場跡が、細長く残ってます。
そこで、薩摩からの武士と弓矢の競争して、そのあと鍋料理で、熱々の鍋を、腕に穴が空くまでもたされて、琉家の先祖は、それくらい薩摩に屈しない根性があったと聞きます。また、薩摩役人も、屋敷前を通る時は、馬を降りて通ったと聞いてます。
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