沖永良部島のお隣にある徳之島についても、当家のご先祖様とは繋がりがあるようで調査を継続しており、少しずつ色々なことが分かってきています。
奄美群島は薩摩藩による系図の取り上げがあったということで非常に資料が少ないわけですが、徳之島の方が系図などの資料が沖永良部島よりは少し多めに残っているようです。
そんな徳之島の古文書や伝承などから、薩摩侵攻時に薩摩と戦った二人の勇敢な兄弟に出会いました。
名前を兄:佐武良兼(さぶらがね)、弟:思呉良兼(めぐらがね) といいます。
時は1609年3月20日。亀徳(かめとく)の海岸のアキチュ浜(東側はカネイク浜)と呼ばれる、ハマオリ(稲の収穫祭)などが行われるのどかな砂浜での出来事でした。
この場所は、徳之島の歴史上最大ともいえる「秋徳湊の戦い」があったところです。薩摩藩は、琉球王国を従属させることを目的に軍船75隻と兵士3000人の軍団を持って、旧暦3月4日に鹿児島の山川港を出港しました。
またたく間に奄美大島各地を平定し、3月20日の早朝には軍旗をなびかせながら秋徳湊(現在の亀徳港)に入ってきました。
琉球王国側は事前にこのことを知っていたそうで、これに備えて防衛団をつくって待ち構えていたため、敵味方入り乱れての接近戦となり、多数の戦死者が出たと記されているそうです。
徳之島に残されている旧記「三家録由緒記」によると、東之主(ひぎゃのしゅ=第3代島主)の息子で掟役(おきてやく=村主)だった佐武良兼と弟の思呉良兼の兄弟が島民を指揮して先頭に立って奮戦しましたが、薩摩軍の鉄砲の直撃弾を受けて戦死し、ついに徳之島は降伏したと記されています。
またたく間に奄美大島各地を平定し、3月20日の早朝には軍旗をなびかせながら秋徳湊(現在の亀徳港)に入ってきました。
琉球王国側は事前にこのことを知っていたそうで、これに備えて防衛団をつくって待ち構えていたため、敵味方入り乱れての接近戦となり、多数の戦死者が出たと記されているそうです。
徳之島に残されている旧記「三家録由緒記」によると、東之主(ひぎゃのしゅ=第3代島主)の息子で掟役(おきてやく=村主)だった佐武良兼と弟の思呉良兼の兄弟が島民を指揮して先頭に立って奮戦しましたが、薩摩軍の鉄砲の直撃弾を受けて戦死し、ついに徳之島は降伏したと記されています。
この兄弟は島民に「粟粥」を敵の膝に撒けと叫んでいたそうです。
沖永良部島でも粟粥作戦がありましたが、永良部では粟粥は武器にはならず、薩摩軍の食事になったとか。しかしこちらの徳之島では、ぐつぐつ煮えたぎった粟粥を武器にしたのですね。防衛団といっても、そもそも武器を持っていなかった島民ですので、この粟粥は知恵を絞っての武器だったのでしょう。
そして兄弟は竹槍を持って軍の中に突進していき、島津勢を10数人かを殺めて島津から撃ち殺されたようです。
粟粥や竹槍が唯一の武器だった島民。そんな島民に鉄砲をうつ残酷な戦いだったわけですね。
沖永良部島が戦わずして降参したのは、この鉄砲の件があったので、戦っても島民を守れない、罪のない島民に無駄な史死者を出すだけだという判断があったのだと思います。
では、徳之島だって戦わず、、、なのですが、そこには理由があったようです。
この島津が徳之島にやってきた日に、島主であった首里之主と呼ばれる人は、沖永良部島の方にいたのだそうです。
実はこの前の年の1608年に、徳之島の島主であった東之主と呼ばれる人が急死しています。そこで沖永良部島の首里之主が、2島を兼任していたのです。
この日にたまたま首里之主は沖永良部の方にいた。もしかしたら粟粥作戦などの指示をしに行っていたのかもしれませんね。
そして徳之島は島主が不在な状態で薩摩がやってきてしまった。
これは困った。困ったのは島で役人をしていた佐武良兼の兄弟だったでしょう。琉球王府や島主の指示を受けれないままに、勝手に島津に降参することはできません。島や島民を守らなければなりません。本人たちが希望する姿ではなかったかもしれませんが、戦うしかなかったのだと思います。
こうした戦いが、昨日まで平和に暮らしていた400年ほど前の島に突然やってきてしまったのです。そしてその後は、薩摩支配による島民を苦しめる出来事が沢山あったのですね。
この佐武良兼兄弟の島と島民を守るための勇敢な戦いは、今でも島の武勇伝として語り継がれているそうです。
そしてこの兄弟が、琉球王家につながる人達で、当家のご先祖様とも繋がる可能性がある人達なのです。
そこは現在ずっと調査しているところです。繋がりを必ず見つけ出したいと思います!