今から遡ること130年前、当家の親族会の初会合が開催されていました。
初の親族会が開催されたのは明治25年8月17日(1892年)のことであったことが記録で確認できます。
この頃はまだ、1400年代の世之主の時代からの住みかであった内城の古城地跡(現在の世之主神社)の周辺に一族が居住していた時です。
宗、桂、武宮、本城、金沢、豊山、平良、村吉といった家々の名前が見られ、宗家を中心として24名で構成され、親族会が開催されていたようです。
この初会合の時にはお爺様はまだ生まれてもおらず、この時の親族会が何を目的としたものだったかの記録はなくはっきりとは分からないのですが、恐らく先祖についてのことや、一族の団結や親睦を兼ねたものではなかったのかと推測されます。上記のメンバーは当家のお爺様が昭和の初期に古記録から書き写した物のようです。
<ご先祖さま調査担当に任命>
お爺様が親族の代表となって先祖調査に乗り出したのは、昭和10年1月10日(1930年)に開催された親族会以降のことだったようです。
明治36年(1903年)生まれのお爺様は当時27歳。昭和4年に島で結婚し、昭和6年に長女、7年に長男、10年に次男が生まれたばかりの頃です。
この時の記録がありまして、これはお爺様が記録していたようです。
顧問や会長、実行委員なども決められており、わりと本格的な会合だったようです。明治25年の初会合からこの昭和10年までの期間は38年程経過しており、その期間に定期的に実施されていたかは不明なのですが、恐らく開催されていたのではないかと思われます。この記録を見ると8月と1月の開催ですから、お盆やお正月の親族の集まりの時に、親睦も兼ねて親族会として様々なことが話されたりしていたのではないでしょうかね。
この昭和10年の親族会で、お爺様の生涯の活動となったご先祖探しの任務がスタートしたようです。当時の本家の当主であった武重爺からの意向や、親族会全員一致によるところだったようです。若くてフットワークが軽く活動が出来る、そして親の後を継いで世之主神社の神主をしていたこともあったのだと思われます。
そして何より、その後のお爺様の活動を追っていくことで分かったことですが、大変な努力家であったことが、代表に選ばれた理由であったと思われます。
当時は今と違ってインターネットで簡単に調べることなどできず、しかも島には古文書類も殆ど残されていない現状だった中で、調査のカギとなるのはわずかな記録と史跡や口碑伝承。島の長老にはかなり話を聞きに訪ね廻ったようです。車も持っていない時代ですから、徒歩で訪ねまわり相当な労力であったと思われます。
そしてある程度の島での調査を終え、親族会での許しのもとに昭和26年11月中旬より28年までの約1年半ほど、沖縄に渡って調査を開始したようです。
昭和10年の親族会以降の昭和12年に書かれているお爺様の記録からの抜粋です。記録上の始祖である中城という御先祖様の石碑(墓石)を昭和12年に保存したようなことが書かれていますね。それを機に、先祖調査隊長としての志を固めたようです。
<沖縄での調査>
昭和26年といえば、お爺様は48歳。9人いた子供の9番目の六女が9月に生まれたばかりの状況下で、沖縄に向かったようです。
この時に昭和11年生まれの次女15歳を同伴しての渡海だったようです。
沖縄に渡ってからは、琉球大学で働いたり、大工仕事などもしていたようです。次女もどこかで働いていたのでしょう。
お爺様が琉球大学で何の仕事をしていたかは不明です。教授などではありませんので、何か雑多な仕事だったのだとは思いますが、もしかしたら琉球史や島の歴史などの勉強や情報収集がしやすいので、大学を職場として選んだのかもしれませんね。
沖縄では、当家のご先祖様に関わる北山時代の拠点であった今帰仁城跡やその周辺を中心に巡り、恐らく他の関係する史跡も見て回ったのではないかと思います。そして沖縄に保管されている琉球史が書かれた書籍をたくさん読んで、それを手書きで複写しています。
コピー機も満足に無い時代ですから、記録は全部手書きでの複写。紙やペンも貴重な時代でしたから、色んな意味で大変だったと思います。
時代背景を把握するために、大きな模造紙(実際には紙をつなげて大きくしています)に、大和・琉球の出来事を記録していった年表がありますが、相当な情報量です。よくぞここまで手書きで書いたなと思えるような記述量です。
コツコツと努力する姿勢がないと、なかなか出来るものではない。これがお爺様が親族会で選ばれた理由だったのでしょう。
そして沖縄で得た様々な情報から、当家のご先祖様についての考察もしており、その記録も残されています。私はその記録を参考にしながら、私自身がお琉球史に詳しくないのもあって、琉球史を調べながらお爺様の記録や考察について検証していっております。今の時代はインターネットの情報や様々な書籍、研究資料を見ながらの昔に比べると簡単になった作業であっても、相当な時間が必要です。それがあの時代に調査となると、本当に気が遠くなるような労力と手間だったと思います。
<沖縄から戻ったあとは>
義母達の話では、お婆様が病気になったこともあり島に戻ってきたそうです。
帰島した時期ははっきりとは分かりませんが、お爺様の記録などを見るとだいたいは予定していた期間は沖縄に滞在出来ていたようです。
お婆様については、その後は晩年までお元気に暮らしていたようですので、この時は沢山の子供を抱えてお爺様が留守の家を守っていた疲労などもあったのではと思われます。
この時代、戦後ということもあって島での生活は相当に大変だったようです。沖縄で働いた分を送金していたのか?子供が沢山いた家の方では、大変な生活を強いられていたのではないかと予想されます。
そこまでして、しかも戦時中という厳しい時代に沖縄まで調査に行くなんて、何かとてつもなく奮い立たせるものがあったのだと思います。
そこは私もお爺様の後を引き継ぐ形で現在調査を進めておりますので、何か共感できるところがあります。
島に戻ったあとは、その後また家族で九州への移住などがあるのですが、この辺りはお爺様のこととして別記したいと思います。
明治25年の親族会からスタートしたご先祖探しの案件、昭和時代にお爺様が調査員として具体的な活動がスタートし、令和になって私が引き継ぐこと130年。間の期間が随分と抜けてはいますが、長期に渡ってご先祖調査をやっている家系です。実際に調査をしていて、口碑伝承や様々な記録を照らし合わせていくと、実に謎が多いのです。
だからこそ、興味が沸くのかもしれませんね。
お爺様の記録やご先祖様の残した記録から、また新たに見えてきたこともありますので、引き続き書いていこうと思います。