豊山家は1716年に与人に任命された豊峯という人物の子孫だと言われている家です。当家との関わりについては、宗家の記録上の2代目:池久保の長女であった真金が嫁にいっております。この豊山家は琉球から来た琉球王府に仕えていた家だといわれており、当家のご先祖様が居住していた内城に住んでいました。
お爺様の記録では、屋号:上花城(お爺様の家)の隣に豊山の家があったようです。
上花城の屋敷(四間殿内)を中心に、東隣に上の家(ういのや)と称する豊山屋敷(豊山の分家)、その更に東側が金城屋敷(豊山本家)があり、この屋敷が豊山の五間殿内と呼ばれて、Vol.154で書きましたがりっぱな御屋敷だったようです。
豊山家は昔は金城(かなすく)という家だったようですが、その音が転じて花城(はなすく)となったようです。後年には花城と呼んでいたようで、当家はその花城の少し上(隣だけど傾斜があるので上になる)に住んでいたので上花城という屋号だったそうです。
この豊山家、沖永良部島全土に土地を持つという大地主で、わずかに三部落だけには土地が無かった位の大地主だったと、お爺様の記録にあります。特に島の西側の部落に土地が多く、小作料の納入期が来ると俵を積んだ牛や馬が続々と後を絶えないほどなので、搬入する俵の数をチェックする暇もないくらいで、部落の入り口で牛や馬の何頭だと数えたそうです。それから屋敷までの道のりの途中で牛や馬が1頭抜けても、部落の入り口で数えられた俵数が搬入数とされたので、悪知恵のある女子たちがそっと荷牛を引いて引き返していたということです。
島の全土に多くの土地を持ち、小作料の納入期には部落の入り口まで俵を積んだ牛や馬が並ぶ様子、物凄く大富豪だった様子が伺えますね。
しかしこの豊山家は、薩摩時代には与人職は豊峯という人が一人だけでした。
そこは私も少し不思議に思っていたのですが、お爺様の記録には「豊山家は大富豪ではあったが役目の無い家柄であった。役目は宗家一門の専有であったらしい」と書かれています。
なぜそのような区分けがあったのか?そのことについては記録されていませんが、何か理由があったのかもしれませんね。
もしかしたら、この大地主と与人職専有だった2つの家の違いが、島の歴史研究やご先祖様探しの何か1つのキーになるのかもしれませんね。
島の書物には記録されていない、さまざまな伝承を教えてくれるお爺様の記録です。