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先祖を探して

Vol.265 シニグ祭 (1) ノロの参加

沖永良部島で明治3年まで3年毎に開催されていたというシニグ祭。
シニグの語源については「災厄を凌ぐ」という説、踊りという説、「忍ぶ」という説など諸説あるようですが、与論町の説明によると稲の古語で「シニ」と 穀物の古語「グク」の複合語から、「ク」を省略したものと見られるということです。
地域によって若干意味合いが違ったりもするようですが、大きくは五穀豊穣を祈る祭りだったようです。
沖永良部島で行われていた由来は琉球北山時代からのようですが、その起源は正確には分かりません。
そして明治3年といえば1870年、奄美群島が薩摩に侵攻された1609年から約260年間ずっと北山時代からの祭りが執り行われていたというのには少し驚きです。
それは奄美群島は薩摩侵攻以降、琉球的な文化を切り捨てるような風潮にあった中で、このような琉球時代からの祭りが継承できていたからです。

祭りは色々とルールがあり開催されていたようですが、出発地点が世之主の城があった地(現在の世之主神神社)であり、当時の権力者(薩摩時代は与人・琉球時代は世之主など)が馬に乗り島々を練り歩いたようです。そしてそれに同行する人たちがおり、大あんしゃり(ノロ)もその一人でした。

ここで少し不思議だと思うことがあります。それは島ではこのようにノロがシニグ祭にずっと参加していたことです。
琉球のノロ制度は、祭政一致で一時期は国王の任命も左右するほど権勢を誇った神女体制でだったわけですが、薩摩侵攻以降に羽地朝秀や蔡温の改革により17世紀中ごろ弱体化、形骸化され、王府内のほとんどの高級神女職は1600年代に廃職されました。この時期に残った三十三君と呼ばれるトップクラスのノロは今帰仁の阿応理屋恵(一度廃職後18世紀に復活。現在廃職)、伊平屋の大阿母(昭和6年廃職)、久米島の君南風の三職のみということで、いずれも首里に上がらない地方在住のノロだったそうです。 

琉球ではノロ制度がこのように衰退の方向に進みトップクラスだけが残った。奄美群島は薩摩から琉球色を消そうとされていたのに、島では琉球色の強いノロが存在し、島をあげてのビックイベントであったシニグ祭にずっと参加していた。しかもこの祭りには薩摩から赴任して島に常駐していた代官・附役たちも参加していたようです。その祭りにノロが参加出来ていたとは、薩摩はノロのことは認めていたのでしょうかね?それともノロは形式上の役回りで、本物のノロではなかったのか?
本物であったなら、島には明治3年までは大あむしられと呼ばれた地方ノロの統括的なノロがいたことになりますね。大変興味深く、何とも不思議なシニグ祭のノロです。


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