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先祖を探して

Vol.94 アングシャリの風習(2)


アングシャリの選出についての詳しい資料は無いようです。
しかし、沖永良部島出身の高橋孝代先生の論文によると、島の長老からの聞き取りで興味深い口頭伝承が得られたと書いてあります。


アングシャリの選出方法

聞き取り調査をしたO家の長老は鹿児島系出自と代々言い伝えられており、先祖に藩役人として赴任してきたH氏のアングシャリになった人物がいたということを誇りとして母親より聞いた話があるといいます。
沖永良部島に新たに役人が赴任すると、各集落の有力者が娘を連れてアングシャリを希望し藩役人のもとに集まった。藩役人は、その中から一人指名し酒を注がせ、それがその女性をアングシャリとして指名した合図とされ、他の人々は去っていくのだそうです。先祖でそのような容貌に優れた女性がいたということを誇りにした話として、長老は母より何度も繰り返し聞いたといいます。

このように沖永良部島では薩摩藩役人との通婚は肯定的に捉えられていたようですが、他の奄美諸島では異なっていたようです。沖永良部島同様に薩摩藩の役所が設置されて藩役人が常駐していた奄美大島や徳之島では、藩役人の島妻になることは沖永良部島よりも否定的に捉えられていたと考えられ、史資料は乏しく詳しくはわかっていないようですが、奄美大島や徳之島では藩役人の島妻になることを避けるため、若い女性を山に「隠した」という言い伝えもあるそうです。

通婚に対する肯定的な考え方にも反映していますが、薩摩に対する沖永良部島民の従順な姿勢は、ある意味では沖永良部島民の戦略の形であるとも考えられているようです。
人口も少なく武力の備えのない沖永良部島民は、勝ち目のない争いを早々に見極め、それによる損失をできるだけ避け、その状況を受け入れ従順な姿勢で藩役人に接してきたのではないかと。その姿勢は、1609年に薩摩が侵攻してしてきた時の対応にも表れていますよね。戦わずして受け入れる。
この作戦が、薩摩藩が友好的な態度で沖永良部島民への考慮を促してきたのではないかと思われます。(これは砂糖政策に関連する話になっていきすので、別記事とします)
このアングシャリ作戦をどう判断するのかは様々な見方や考え方がありますので一概に言えませんが、平和を愛する気質の島民の方々の知恵によるうまい戦力だったのかもしれません。


役人とアングシャリの子供は

藩役人の子供(トンガナシグヮ)は、同じ薩摩系の血縁同士で姻戚関係を結び、権力と資産を集中させ富裕層を形成していったようです。藩役人の子が娘の場合は、その後赴任した藩役人の妻になることが多かったのです。
藩役人とアングシャリとの間に生まれた子は薩摩で教育を受け、後に島の指導者になった人物もいました。例えば、土持正照は、天保2、6 、9 年の3 度にわたり沖永良部に藩役人として赴任した土持叶之穣と現地妻「鶴」の子ですが、鹿児島の正妻に嫡子がなく土持家に引き取られ薩摩の郷中教育を受けたそうです。しかし、その後正妻に嫡子ができ土持正照は沖永良部に戻り、その後、明治6 年に初代戸長となっています。
藩役人の子孫は代官所のあった和泊集落を中心に住み定住するようになったので、和泊や隣接する手々知名集落には、鹿児島系の人々が多数を占めるようになっていったのです。
そして、藩役人である武士の子孫として優遇され、経済的にも恵まれ、島役人にも取りたてられていくようになるのです。

お爺様の書によると、土持家は明治31年の大型台風までは、当家の先祖が居住していた古城地付近の内城に住んでいたようです。台風で屋敷が倒壊したことで、和泊の方に移住したようです。


シュータ

これらの武士の子孫の人々は島の言葉でシュータと呼ばれ、鹿児島系出自の人々を中心とする社会集団を形成していったのだそうです。
「シュー」は、当時一般の人々が上層の人々に対する尊称で、「タ」は複数を表す言葉。彼、彼らの「ら」にあたるような言葉なのでしょうね。
そしてこれらの人々は島役人になることが多いことから、官公職に就いている人も指す言葉に転化しているそうです。現在でも和泊、知名役場に勤めている人を指してシュータという言葉が用いられることもあるのだそうです。

島の住民で特に藩役人を補佐しその活躍が目覚しい親族には、武士に準ずる地位「郷士格」が与えられ、近世後期には5 親族が郷士格を与えられたようですが、その親族はほとんどが薩摩藩役人と現地妻の子孫であったようです。これらの人々は、薩摩の武士と区別をするため奄美諸島での他の島々と同様に二字姓は認められず、琉球式に一字姓を名乗ることのみが許されていました。よって、郷士格を与えられた親族集団は、先祖となる藩役人の姓から一字をとる場合が多く、例えば「土持」であれば「土」というように町、土、山、市、竜の姓を名乗ったそうです。その後明治になり、姓を名乗ることが義務付けられた後は、先祖と同じ姓に改姓している場合が多いそうです。
和泊や手々知名集落の中には、このような郷士格の親族を含む「武士の子孫」の集落、シュータジマ(シュータの集落)として、他集落にたいして優越意識をもつ人もいたようで、他の集落の人々はサトチュ(里人)と呼び、シュータジマに対し、「田舎(在、郷)の百姓」という意味でそのように呼び差異化していたそうです。
ただし、かつての政治の中心地であった内城集落に対しては「グスクシュー
タ」と呼び敬意を示し、サトチュ(里人)扱いにはしなかったということです。


まとめ

このようにして、薩摩の代官が1690年に赴任して以降、約200年程はアングシャリの風習があり、政治の中心となる場所や人たちの移り変わりがこのアングシャリによって変化していったようです。

憶測の域は出ませんが、当家の池久保が結婚した相手である梅千代がアングシャリの娘であったのなら、代官赴任制度より少しだけ前の時代のことで、先駆けだったのかもしれません。
今のところ記録が見つからないので確証はありませんが、その可能性が高いということです。

以上がアングシャリについてになりますが、島独自の風習や文化を持った沖永良部島は歴史の魅力がいっぱいですね。


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