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先祖を探して

Vol.348 世之主由緒書を紐解いてみよう(2)

世之主由緒書は昭和28年にお爺さまが、昭和30年には一族の豊山英敏氏が解読し、旧字体を新字体に改めて書き残しています。
この解読が初めての作業であったと認識していたのですが、実は大正時代に既に活字化され、島外に在住の研究者が書いた本にその内容が記載されているのを発見しました。
このことは以前の記事にも書きましたが、門外不出と言われていた古文書が大正時代に既に公開されていたのには驚きました。
歴史研究の発展のために公開したのかもしれませんが、詳しいことは分かっていません。

この世之主由緒書ですが、活字化されているとはいえ文体が古語ですのでどうしても意味がとりにくい箇所がありました。特に書かれている内容を正確に知りたい箇所については、やはり専門家にお願いして現代語訳にしてもらうしかないと考え依頼しました。
この方は同じく先祖調査をされている方で、SNSを通じて知り合った方です。何と母方のご実家が奄美大島、かつ琉球尚家の子孫と伝わる家の方です。

「江戸時代の武家古文書を研究する戸川氏」 

この方にお願いし、小学生でも分かる文体にするということで現代語訳を進めました。昨年秋頃から不明な点などを確認しながら、とても熱心に作業にあたってもらいまして、年明けには納品。念願の現代語での世之主由緒書が完成しました。原文と現代語文を掲載しながら、少しずつ読み解いてみようと思います。

原文
『世乃主かなし由緒書』

沖永良部島先主
世之主かなし 幼名真松千代王子
右御由緒私先祖より申伝之趣左条之通り

一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三王為被成御在城由。
  北山王乃儀ハ今帰仁城主二テ、琉球国の中より国頭九ヶ間切、其の外伊江
  島、伊平屋島、與論島、沖永良部島、德之島、大島、喜界島迄御領分にて
  御座候由。
  北山の御二男真松千代王子乃儀ハ沖永良部島為御領分被下、御渡海の上玉
  城村金の塔(コバノトウ)え御館を構へ被成候由。左候処大城村川内の百
  (ホーチノヒャ)と申すもの御召列、毎々魚猟に古里の下與和海え御差越
  海上より右川内の百、当分の古城地を指し彼の地の儀ハ大城村の地にて御
  座候につき、世乃主かなしの御居城為御築可被遊段申し上候処、忝被思召
  旨の御返答にて、即其比後蘭え居宅を構へ罷居候後蘭孫八と申すものへ城
  築方被仰付、三年目に城致成就。夫より御居城と相成候由


現代文
『世乃主かなし由緒書』

沖永良部島を治めた先の領主「世之主かなし」は、幼いころの名を真松千代王子と申します。
その生涯について、私が先祖より代々にわたり伝えてきたお話は次のようなものでした。

一、琉球国は、かつて中山・南山・北山と三つの王族がおられ、それぞれに治める領地と城がありました。北山王の一族は今帰仁の城主として、琉球国の中でも国頭は九ヶ間切、ほかに伊江島、伊平屋島、與論島、沖永良部島、德之島、大島、喜界島までを広く治めておられました。
北山王の二男である真松千代王子は、沖永良部島をご自身の領地として父王から受け継ぎ、うら若きころ島へお渡りになりました。はじめ玉城村の金の塔(コバノトウ)に屋敷を構え、大城村の川内の百(ホーチノヒャ)と申す者をよく召し連れ、一緒に海釣りへと出かけました。彼の案内で古里の下與和海へ漕ぎ出すと、川内の百は海の上から、いまの古城の地を指して言いました。「あれに見ゆるは大城村の地でございます。あそこに世乃主かなし様の居城を築かれたら宜しゅうございましょう」。王子は「ぜひそうしよう」と思し召し、さっそく後蘭の孫八と申すものに築城を命じました。そして三年後、ついに城は完成し、世乃主の居城となりました。

琉球国の中でも、国頭は9間切りであると書かれていますが、資料によれば17世紀中頃には7間切り、それより以前の琉球時代には国頭は5間切りであったということですので、9間切りとは平安統がこの由緒書を書いた1850年の時の状況だと思われます。
そして北山王は当時、奄美の喜界島まで広く治められていたということですね。これについては確かなことはまだ分からないようです。

真松千代王子(永良部世之主)は北山王の二男で、父王から沖永良部島を領地として受け継ぎ、若き頃に島に渡ってきたようです。
島で語られている伝承の一説には、島のノロが年貢を納に行った時に連れて行った姪が国王に見染められて、その二人の間に生まれたのが真松千代。そして真松千代は7歳まで島で育ち、父王に会いに行って息子と認められ、そのまま父王のもとで養育され、世之主として島に戻ってきたというような話があります。
しかし由緒書には、そのような話は書かれておらず、真松千代の出生については謎です。北山側にも何の記録も今のところ無いそうで、時代的には最後の北山王の攀安知の祖父になる怕尼芝王の息子説が有力です。世之主は攀安知の叔父にあたる存在であったということですね。

川内の百が海の上から当分の古城地を指しというフレーズ、世之主の時代に既に古城地であったのか?それとも平安統が由緒書を書いた時に古城地であったという意味なのか?どちらともに取れる内容となっています。
城があった場所は山に囲まれた山頂の1つです。
ここが既に切り開かれた場所であったのでしたら、築城に3年もかからなかったのではないかとも思います。
また平地から城までの道は、ナイバサマと呼ばれた場所を通る山に挟まれた谷になる細く険しい山道しかありませんでした。昭和の初期までずっとその道が使われていたわけですから、築城には苦労したのではないかと思うのです。中でも気になるのが、城の城壁に使われていた石をどのようにして運んだかということです。
平地から運んでいたのであれば、距離や道を考えればかなりの労力です。
伝承の1つに、人が城まで横並びして石を手渡しで運んだということですが、いったい何人の人が必要だったのか?そんな人数の島民が当時いたのか?
色々と謎があります。石は近辺から調達されたのではないかとの説もありますが、そのあたりは解明されていません。しかし世之主の城が築城されていたのは事実です。当時の人々の労働力は素晴らしいですね。

そしてこの場所にどのような城が建っていたのか。現在は世之主神社が建つ場所ですが、山頂の平場はそれほど広くはありません。島の規模にあわせたこじんまりとした城だったのか。とても興味があります。



続きは次回に。

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