見出し画像はWikipediaより
当家が薩摩時代に一代限りの士族に任命された時の辞令書が保管されています。
原本はかなり痛んでいるようですが、平成8年に島の郷土研究家である先田光演先生が原本から書き写してくれた資料がありますので、それを掲載したいと思います。(原本の撮影はまだ出来ておりません)
これは1876(明治9年2月)年に書かれたもので、当家の記録上の先祖である8代目の平安頴善保という方が、一代士族に認めてもらうために鹿児島県に提出した上申書の写しであるようです。郷士格を名乗った旧家には保存義務があったのだと思われます。これによって、苗字の使用が認められたわけですね。
資料の右半分は、平安頴善保が書いた上申書です。内容を見ると、自分が薩摩藩の役人として活動してきた実績が書かれています。
1831年(天保2) 掟寄役
1833年(天保4) 掟寄役
1842年(天保13) 間切横目寄役
1845年(弘化2) 間切横目寄役
1846年(弘化3) 田地横目寄役
1847年(弘化4) 田地横目寄役
1849年(嘉永2) 田地横目寄役
1857年(安政4) 田地横目・黍横目兼務
1858年(安政5) 間切横目寄役
*与論島の砂糖製法指南方兼諸下知方に渡海
1864年(元治1) 間切横目寄役 *与論島に渡海
1865~1867年(慶応1~3) 間切横目寄役
1868年~1876年(明治1~9) 間切横目
横目とは警察官のような仕事です。与論島にまで渡海していたことが分かりますね。そして、当家は島の砂糖生産には関わった形跡が無かったのですが、お隣の与論島の方を管理していたのですね。
そして自分は41年もの間、役人として勤務し、父親の代までは与人を7代続けてやってきたことが書かれています。
この方は1815年生まれですので、16歳で掟寄役をし、61歳ころまで間切の横目として働いていたことになりますね。享年は68歳(1856年2月)です。
歴代のご先祖様が与人職以外に若い頃から役人として働いていた人はいると思うのですが、記録が無いので分かりません。
この方は島役人として定年まで勤め上げた感が凄い。もしかしたら当家のご先祖様の中では1番役人として長い間頑張った人なのかもしれません。
この功績が認められて、晴れて士族へ昇格。
後半の文章は一代士族を認めたということを鹿児島県庁が出した書類の写しのようです。
郷士格の家は沢山あったわけではなく、沖永良部では5家だけです。そのほとんどが砂糖製造に関わっていた家だったようです。
この文書はそういう意味において、現存する珍しい文書だと思います。
そしてこの方を最後として、300年程続いた薩摩藩の支配下による島役人の制度は廃止されましたので、最後の士族認定という意味においては、当時の様子を伝える非常に貴重な記録なのかもしれません。