世之主の墓(ウファ)の納骨堂に安置されている厨子甕は、中央3つ(世之主、奥方、長男)と四隅に四天王の分で合計7つあります。
これからの厨子甕は全て円形の形をしているのですが、中央の世之主一家の厨子甕については、何となく違和感を感じておりました。北山王の次男であり、島主として世之主と呼ばれた人の骨壺としては、何となく迫力に欠けるというか質素に感じるというか。
沖縄本土の第二尚氏王家の墓である玉陵 (たまうどぅん )や、浦添系の浦添ようどれなどに安置してある厨子甕は四角い形をしており、その形が厨子甕だと思っていたので、形が違うことへの違和感か?
ずっと気になっていたので、厨子甕のことを少し調べてみました。
厨子甕の種類
板厨子・石厨子・甕型・御殿型・その他の5種類に分類されるようです。そして時代によっても使われた物が違うようです。
安里進先生:沖縄の墓と王陵の思想 より
上記の安里先生の資料によれば、6~10は近世(江戸時代以降)の士族・農民層が使う厨子となっています。
世之主の墓に安置してある厨子はこれです。
これらは、甕型のマンガン釉厨子ですね。1つ前のボージャー厨子と入れ替わるように、1770年代から出現しはじめ、戦後まで作られたようです。マンガン掛けの焼締め厨子甕で、マンガンを掛けると、全体に黒っぽい色の甕になる。このタイプは陶製厨子甕のうちでも数の上でもっとも多く、初期には上流向けも作られたが、のちにはもっぱら庶民向けのものとなった。時代が下るにつれて、胴部の口は大きくなり全体のシルエットも細身になる。蓋はボージャー厨子のように、宝珠やつまみが頂上部に付き、蓋の高さはのちになると次第に高くなる傾向がある。装飾は張り付けと線彫りを適当に混ぜたものが多いそうです。
このタイプのものが1770年代から出現しはじめたということは、18世紀後半ということになります。和泊町のお墓の調査報告書によると、墓が作られたのは17世紀後半以降ということで、墓がその時期に出来たとすれば、厨子甕は100年ほど後に安置されたことになります。
それか、実際に墓が出来たのが厨子甕の年代の頃で1770年あたりなのかもしれません。
というのも、この世之主の墓と、すぐ近くにある当家と豊山家のお墓であるチュラドゥールは、もともと世之主の墓を作りにきた石工に頼んで、自分たちのお墓も作って欲しいということで建造したという伝承が代々伝わっています。伝承では同時期に作ったことになっているのです。
お墓の年代調査では、世之主の墓であるウファは17世紀後半以降、チュラドゥールは18世紀前後以降となっているので、伝承と違って実際は作られた時期が違うのではないかといった見解もあるようですが、厨子甕の年代を考えると、2つの墓が作られたのは18世紀後半が正しいのかもしれません。
更にそれを裏付けるのが、チュラドゥールにある日本式の墓石で、当家の墓石を建てたのは、池悦という与人職をしていた人です。この方が1760年6月に建立しております。チュラドゥールを作った時に、墓の東側と西側を宗家と豊山家でどちらを使うかという喧嘩をして、結局豊山家が東側、宗家が西側を使うことになり、当家の墓石は西側にあります。よって墓石の建立時期はチュラドゥールが出来た時とさほど変わらないはずです。
そう考えると、世之主の墓、チュラドゥールの建造時期は1760年を目度として、18世紀後半なのかもしれません。
そしてもう1つ疑問が。このマンガン釉厨子は士族や農民が使ったようですが、あれだけの墓がありますし、薩摩時代には与人職をしていますので、農民ではありません。そうなると琉球士族だったことになります。
1416年頃に北山が滅んで、その二男であった島主の世之主(真松千代)の墓だと言われているのは、実際どうなのだろうか?
世之主が自害したあとに、いったんは城跡のすぐ横の小高い丘であるウファチジという場所に埋葬されたそうですが、その場所の下に住む住民が、その丘の北側の下にヤシ川というのがあって、その川の水を飲料水としていたので、いくら偉い人の墓であっても飲料水として使うのは不衛生だから、墓を別の場所に移して欲しいと島役人を通じて琉球王に要望があったのだそうです。そこで琉球から石工が派遣されて、、、との話がお爺様の記録にあるのですが、この墓が北山王の次男の世之主のものであったとするならば、第一尚氏にしろ第二尚氏にしろ時の琉球王が、この頼みを聞き入れるのでしょうか?
埋葬されているのは自分たちの一族ではなく、北山王の一族なわけですからね。だったら住民に引っ越したら?って言いそうですよね。そんなにたくさんの住民がいたわけではないと思うので。
そこで考えられるのは、そこに埋葬されていた世之主と呼ばれる人は、第一もしくは第二尚氏に連なる一族の士族だった可能性があります。三山統一の後は、琉球から島の統治者として大屋子が派遣されていますし、その人が王家に関係のある士族だったという可能性です。
これはあくまでも私の考察です。厨子甕の調査から、墓の埋葬人のところまで考察が進んでしまいました。
しかしご先祖様がいったい誰であったのかを探していくには、様々な視点も必要です。可能性のある話として、引き出しに入れておきます。
もう少し詳しいお墓の調査があれば、もっと色々と判明するでしょうね。今後に期待したいです。