前回の続きです。
東條英機首相はじめ首脳部は、なぜハルノートを「最後通牒」
と解釈したのだろうか。先のブログで転記した記事を読んで
も、俄には理解できない。
「
3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵[注釈 3]
4.日米がアメリカの支援する蔣介石政権(中国国民党重慶政府)以外
のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否
認)」
先ず3の支邦即ち中国には満州国が含まれていないはずなの
に、どうしたのか
「
ハル・ノートにおける満州国について
そもそもハル国務長官にとって満州問題は優先順位が低く、日米
交渉の争点にすらなっていない[57]。」
ハルも野村大使も「中国」という言葉を満州を含む意味には使って
おらず、国務省極東部内の認識も同様で、それが現場の常識であっ
た[57]。ハル・ノートの原案であるモーゲンソー案においても満州
は中国とは別の地域を意味しており[58]、11月22日案・11月24日
案においても「中国(満州を除く)」と明記してあった[57]」
しかし、「
(ただし、11月25日案(ハル・ノート)では「(満州を
除く)」という挿入句が外された[57]。・・・・」からだろうか。
なぜ「満州を除く」の挿入句が外されたのかの説明文はない。
その後の12月1日
「
一方、日本政府の解釈であるが、12月1日の御前会議での東條首
相及び東郷外相の説明では、ハル・ノートの解釈について「汪兆銘
政権の否認」を挙げていても満州国の否認は挙げていないこと」
ところが「
そして東郷が米国案を受諾すれば「其の結果満州国の
地位も必然動揺を来すに至るべく」と述べていることから、ハル
・ノートにおける「支那(中国)」の中に満州国は含まれていな
いとの前提に立っていたことが認められる[59]。」と東郷が満州国
が含まれていないことの認識を示しながらも、受諾した後の懸念
を示していることが、「最後通牒」という観念に傾斜していった
のではないか。
「
御前会議において原嘉道枢密院議長がこの点について質問してい
るので、以下に原と東郷のやりとりを引用する[60][61]。
原 「特に米が重慶政権を盛り立てて全支那から撤兵せよといふ点
に於て、米が支那といふ字句の中に満州国を含む意味なりや否や、
此事を両大使は確かめられたかどうか、両大使は如何に了解して居
られるかを伺い度い」
東郷 「26日の会談(ハルノート提示時の野村・来栖-ハル会談)
では唯今の御質問事項には触れて居りませぬ。然し、支那に満州国
を含むや否やにつきましては、もともと4月16日米提案(日米諒解
案)の中には満州国を承認するといふことがありますので、支那に
は之を含まぬわけでありますが、話が今度のように逆転して重慶政
権を唯一の政権と認め汪兆銘政権を潰すといふ様に進んで来たこと
から考えますと、前言を否認するかも知れぬと思ひます」
東郷は再度、懸念を示しているが、ハルノート第2項4の「
蔣介
石政権以外 のいかなる政府も認めない」つまり日本の傀儡政権の
汪兆銘政権は認めないということなので、これを日本政府は呑めな
かったということだ。特に軍部が認めなかったのだろう。東郷外
務大臣は、どうして吉田茂の忠告を受け入れることができなかった
のだろうか。犬養毅のように軍部によって暗殺されることを恐れた
のかもしれない。吉田茂のように優れた外交官や天才軍師・石原莞
爾らがいながら総合的な判断ができなかった。ちなみに吉田茂は満
州国建国を強行に主張し、しかし、それ以上の拡張を望まず、石原
莞爾もまた満州国以外に戦線を拡大することを望まず、満州を足場
に中国と和睦し「大東亜共栄圏構想」を広めることを考えていた模
様だ。
いずれにしても民主主義の経験も浅く、「ブレーンストーミング」
などの民主主義的討論の技術等皆無の日本の軍事政権は幕末の尊王
攘夷の硬直した精神風土から脱してはおらず、米英と戦う方向に舵
を切った。あれほど死守しようとした汪兆銘政権は裏で蒋介石と手
を組んで反日戦線へと転じていく。
吉田茂はハル・ノートについて、「すなわちこれは『試案』であ
り、『日米交渉の基礎案』であるといっている。実際の肚の中はと
もかく外交文書の上では決して『最後通牒』ではなかった筈だ。」
そして最も象徴的なのは駐日米国大使グルーの発言。
「
米国政府は極東の全情勢を調整するための十ヶ条からなる提案草
案を日本に渡した。範囲の広い、客観的にして政治道を具現化した
文書であり、もし日本が侵略的政策を中止しさえすれば日本がその
ために戦いつつあり称するものをほとんど全部与えることを提議し
ている。このプログラムに従えば、日本は必要とする原料を自由に
入手することと、通商貿易の自由と、財政的協力と援助と、凍結令
撤回と、米国と新しい通商条約を交渉する機会を与えられる。・・
「今政府がとるべき賢明な処置はワシントン会談でこれ以上武力に
うったえることなく、いままでそれを目的に戦ってきた保全及至
『自由』を獲得し、偉大な外交的勝利を占めたことを国民に納得さ
せることである」[78]。
また、グルーはハル・ノートは決して最後通牒ではない、日米間で
認められた協議の基礎を明示したものであることを東郷外相に説明
したいと、吉田茂に依頼して会談を申し入れたが、東郷は応じなか
った[74]。後にグルーは東郷に会ったが、「自分は甚だしく失望し
ている」と告げられたという[79]。」ら
以上からも解るように、ハルノートが「最後通牒」などということ
はなく、また太平洋戦争はルーズベルトやソ連が仕掛けたわけでも
い。
愚かにも日本政府が自ら選んだ道だ。
いずれにしても藤井氏の「太平洋戦争の大嘘」は日本国民を「反
東京裁判史観」へなりふり構わず誘導しょうとする歴史解説書を
装ったプロパガンダである。
藤井君
安倍前首相の唱える
「戦後レジームからの脱却」を
踏襲したつもりだろうが
君の論旨は
「戦前回帰」ではないか
安倍前首相も
本心は君と同じの
「戦前回帰」ということなのか
教えてくれ