東日本大震災 曾野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
東日本大震災 曾野綾子氏と読売新聞「編集手帳」
東日本大震災 曾野綾子氏個人的記録という欺瞞Ⅳ
東日本大震災 曾野綾子氏と文芸春秋「日本はどこで間違えたか」
揺れる大地に立って曽野綾子氏東日本大震災個人的記録の欺瞞3
東日本大震災・曾野綾子のキーワードの数値規制は、どうも
解除されたようだと夫は喜んでいますが、数値規制のおかげで全く
表示されなくなったサイトがあるのを気にしています・・・・。
ちょっと一息。
ニャ~メン
敬虔なクリスチャンかニャン?
子猫のあどけない顔に澄んだ瞳・・・・微笑んではいないけど
モナリザの微笑み?・・・・ネットで偶然見つけた。
曽野綾子氏にも見せてあげたい・・・・・。
さて、読者諸氏には陰ながらご支援頂き感謝申し上げます。そして
曽野綾子氏側の諸兄にご苦労様と申し上げたい。昨夜から当方の瑕疵
のある過去ログ「東日本大震災 許せない曽野綾子氏の傲慢その2」
がトップ表示されなくなったのは曾野綾子氏側のクリック作戦の中止
を意味するのか、一時中断なのかは今後をみるしかありませんが、曽
野綾子氏側の諸兄は総帥同様表層の部分に拘るあまり、何か勘違いし
ておられるようだが、当方のブログなど文章の良し悪しや出来不出来
で読まれる方はいません。心意気に感じて読んで頂いているはず。「作
家」ではないのだから何も隠すものなどない。当該の「許せない曽野
綾子氏の傲慢その1・その2」は冒頭の挨拶が最近まで「亡くなられた
方とご遺族に心からお悔やみ申し上げます」と非常識な文章になった
ままで訂正し忘れたブログでした。それを曽野綾子氏側に発見して頂
き、「見せしめ」の為に相当クリックして頂いたおかげで小生も気が付
いて訂正したのですが、所詮ブロガーの端くれです。それがせいぜい
といったところ。しかし、要は心意気ですよ。小生はブログで告白し
ているように「出来損ないの中学生」だったのと、いい年して、その延
長線上の人間でしかありません。建築業を永くやって不良に近い職人
を相手にしてきたせいもあって「上品」というものには縁がなく、どちら
かというと粗野で、不動産業をやるようになって少し大人しくなった
程度。また曽野綾子氏のことを書くようになって、文章を書く喜びを
わすがではあるが知ることができた。それと、もともと紋切り型の挨
拶が苦手というか抵抗があって、そういう言葉を使わずに来た。身内
を亡くされた方をどう慰めたらいいのか、言葉を見つけられず葬式に
参列しても「ご愁傷さまです」なんてなかなか言えなかった。ただ
「この度は・・・」と濁すだけ、その程度です。それが今回の名残となっ
ている。でも表出して頂いたおかげで再度自分の過去ログを読み直す
と、半年前は実に貧弱なブログだったが少しは書きなれて、2年前と
少しも変わらない曽野綾子氏と比べれば随分と進歩したではないかと
自画自賛中です。よろしく。
ところで、この間からの数値規制。これは期間を限定して行われた
ようだ。ただ残念なことは今回の数値規制で消えてしまったサイトが
あることだ。「曽野綾子」と銘打ったそのサイトは曽野綾子氏の著書
の紹介等のサイトや反曾野綾子の論調を展開するサイトを合わせて6
箇所ほどリンクさせていた。いつからか当方のブログを2記事リンク
していて極めて公平なサイトだった。例え当方のブログがリンクされ
ずとも当該の「曽野綾子」サイトが表示されることを切に願っている。
さてはて曽野綾子氏が「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個
人的記録」を出版して以来、つらつら考えていたことだが、どうもしっ
くりしないことがある。
先の当ブログ「曽野綾子氏よ、被災者の怒りを聞け!」で記載したある
被災者の怒り。541:吾輩は名無しである:2011/07/26(火) 23:15:52.08
のレスの声の中で述べられていた「今回で私は東日本大震災との
関わりを終えたい」という曽野綾子氏の撤退表明。7月26日に「W
ILL今月号」といえば7月号だ。この原稿の締め切りは5月末から6
月初旬と思われる。その頃には曽野綾子氏は「今回で私は東日本
大震災との関わりを終えたい」と記述していたことになる。ところが
その舌の根も乾かない2ヵ月後の8月には今回の「東日本大震災の
個人的記録」を編纂していたというから驚きだ。「関わりを終えたい」
と表明しながら一方では「関わり続ける」という、この見事なまでの
二枚舌は何なのか?批判されて「関わりを終えたい」と表明したの
に「老いの才覚」がトップセールスを記録したので、すっかり気を能
くして「関わり」を続ける気になったのか、はたまた出版社に担がれ
て、その気になったのか、いずれにしても「関わりを終えたい」と表
明したのに何のこだわりもなく豹変するなんて読者無視、国民無
視の曾野綾子氏らしいやり方だ。・・・・そこで、ふと思い出した。
二枚舌その一枚で身を破り 他の一枚で人を損なう
誰が詠んだか知らないが有名な「二枚舌」の狂歌だ。二枚舌は他人を
傷つけるだけではなく親しい人も無くしていくと昔の人は歌に託して
警告した。しかし、曾野綾子氏はそんなことには頓着もなく二枚舌を
やってのける、すばらしい文人だ。
では本論?に行こう。「第4章「適応力」が試されるとき」このようなタイ
トルをつけるからにはご自身は「適応力」があると自負しておられるの
でしょうね。曽野氏はうつ病を患った経験をお持ちだから言わせて頂く
が、うつ病を別名「適合(適応)障害」と呼ぶ医師もいるそうで、ひょっと
すると曽野氏は「適合障害」を克服したので人様の「適応力」や仕草が
いたく気になるのではないのか?例えば平成16年(2004年)の台風23号
の被災者に対する曾野綾子氏の記述。
「学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給さ
れていた。一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわか
らない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当
たり前だ。それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避
難するだけの個人の才覚の訓練が要る。お弁当なども行政は配る必
要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で
歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って
来るのが世界の当然だ」
さらに同年の中越地震では
「避難所で救援物資を当てにして待っている避難者は甘え過ぎだ。避難
する時に寝具を担いで逃げるのは当たり前。自分ならガス漏れの
心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。必要なものが手元にな
いのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」と「適応力」がない
から憤っているんだと云わんばかりだ。それらも「適応力」不足といえば
そうかもしれないが、「文化功労者」が被災者の一時の状態を見て大騒
ぎするなんてみっともないことこの上ない。もっと大きな視点に立って
ご覧になってはいかがですか?狭小に過ぎる。まるで家庭の主婦が騒い
でいるように見えて情けないなんてものじゃない。「適応力」についても
ネットを調べたらどうですか。少しは考えが変わるのではないか?ネット
には「適応力」についての面白いコラムもあるし・・・・。
「適応力について考える」日比野氏のコラム このコラムは日比野という
署名があるだけで日比野氏の出自は不明だが延1010万人が訪問して
いる人気コラムということだ。内容は元大リーガーの投手長谷川滋利
氏の著書「適者生存ーメジャーへの挑戦」から引用されて解りやすく解
説してある。このコラムこそ「適応力」の何たるかを教えている教科書だ。
そして、その「適応力」の最たるモデルが飯館村にあった。津波の被害に
こそ遭わなかったものの原発事故の計画的避難区域になって苦難の中
から立ち上がり今年10月にジャスダックに上場したある企業の話だ。
次のリンク先は公開を終了した模様です。悪しからず11/25
NHKニュース9「逆境に負けない!飯館村から皆で果たした上場」
曽野綾子氏よ、つまらんことを言う前に、こういう企業を取材すべだった
ろう。
次、「【1】震災と被曝~フクシマとヒロシマ」。週刊ポストの4月1日号の東
日本大震災の特集のコラムではヒロシマには一言も触れなかった。
「たった一回の地震で、日本の誇るあらゆる施設も物自体もそして当然
その結果としての制度や産業も、部分的にだが消失した。どんな事故
も、一瞬にして万単位の人を消し去ることはできない。私たちは千
年に一度の災害を体験し、その現実を教えられたのである」と記述した
ことに宇佐美氏が「曽野氏は、(一瞬にしてそれぞれ数万人以上が亡く
なった)広島、長崎をお忘れですか!? 」と注意を促している。これに対
し同胞意識は微塵もないのに一応反応して項目を設けたものと思われる。
宇佐美保氏のブログ「復興は平和の礎」
第一、フクシマに関しては原発事故を起こした東京電力を擁護しながら
「国民の方は昔から原発を『絶対に安全なのか』という言い方で追いつ
めてきた。『いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想
定して避難訓練もいたします』と原発側が言ったとすると『事故がおき
る想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対
に安全です』という子供じみた応答になる。しかし物事に『絶対安全』
ということはないのである。今後いかなるエネルギー政策をやろうと、
絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。
もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ。」
と発言し原発推進派の意見を代弁しておきながら、またもや詭弁なの
か二枚舌なのか、読まずとも底は知れている。ここで曽野氏には注
意申し上げるが、福島と広島をカタカナで列記するのは適当ではな
い。フクシマは原発事故の現場で働く東電の社員達を英雄視した
外国の報道に倣って表記したものが含まれていて、一方のヒロシ
マは悲惨な最後を遂げられた多くの戦争犠牲者と平和のシンボル
としての地名だ。カタカナで列記するのは極めて不謹慎だ。
こういうところも「文化功労者」としての曾野綾子氏の見識のなさを
表している。
そして、次の「【2】震災と援助~「超法規」の中で生きる」。こんなタイトル
を一ぱしつけてみたところで肝心のご本人が「超法規」という言葉を果た
してどこまで理解しておられるか疑問だ。なぜか?WILL6月号の渡部昇
一氏との対談「不幸からの贈り物が日本人を鍛える」の中で、理解力の
疑われている曽野綾子氏がしたり顔で意味不明のことをのたまうあたり
は滑稽の一言につきるからだ。。
曽野 「・・・・・・そして、電気が消えた時点で、民主主義というものは
停止するんです。公平も平等も機能しないんです。それがわかって
いない」と言った人が自分の言っていることをよく分っていないから手に
負えない。「民主主義」という意味をちゃんと理解していないから妙なと
ころで妙な使い方をしてしまう。
曽野綾子氏のこの発言に対して2Chのレスはこう告発する。
○停電時には普段と違った規律が必要だと言うのなら、今回の日本人
の東北や関東の被災者の行動は、世界で模範となるようなものだった
ろ? 合格点だ。曽野氏は「民主主義」を自分勝手主義と解釈してい
るのかね?そうなら、「民主主義」を抑制した日本人は適切な行動を
とっていたように思う。
○非常時にも秩序を失わなかった、被災地の方への侮辱だ
○電気が消えても民主主義は続くが、放射能が舞う中では、民主主義
は危うくなる。
○金のある者はより安全な場所に身を移し、貧しい者は避難できない
まま死ぬ。人の命を分ける不平等が姿を顕す。
この中には格言とも言うべき言葉がある。言い得て妙だ。
次の「第5章「安心病」との闘い」ご自分が「安心病」に罹っているのに
何を言うのですか?先の当ブログ「曽野綾子氏の間違いだらけの文章
作法」で暴露した様に氏は「曽野綾子」という偶像に胡坐をかいて甘えに
甘えて「安心病」に罹っているから文章修行も怠っている。人のことを言っ
ている場合ではないでしょう。自らの「安心病」と闘いなさい。まして去る
5月27日の産経新聞に掲載されたという氏の「『安心病』の特効薬は」
と題したコラムに「ニュースに出てくる・・・人たちが『安心して仕事を
始めたい、安心して子供を遊ばせたい』と言っているのを聞いて、
私はおかしな気分にとらえられた」。何度も言うが明らかに白痴の領
域。今それらの母親達の「安心して遊ばせたい」という声が放射能
線量測定となり除染活動となって作業が進められている。この種の
曽野綾子氏の発言は何を言っても空疎に聞こえる。
「【1】震災と運~誰にも操作できない力
【2】震災と責任~「絶対安全」神話の崩壊」
ここも前出の「フクシマとヒロシマ」に重複するので除く。
以下も除きます。
第6章 十人の美女の寝顔
内容(「BOOK」データベースより
世間知ずで不見識な曽野綾子氏よ
世間のことに口を出すのはお止めなさい。
みっ・と・も・ない
・・・・・・だそうです。
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東日本大震災 曾野綾子氏と読売新聞「編集手帳」
東日本大震災 曾野綾子氏個人的記録という欺瞞Ⅳ
東日本大震災 曾野綾子氏と文芸春秋「日本はどこで間違えたか」
揺れる大地に立って曽野綾子氏東日本大震災個人的記録の欺瞞3
東日本大震災・曾野綾子のキーワードの数値規制は、どうも
解除されたようだと夫は喜んでいますが、数値規制のおかげで全く
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ちょっと一息。
ニャ~メン
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子猫のあどけない顔に澄んだ瞳・・・・微笑んではいないけど
モナリザの微笑み?・・・・ネットで偶然見つけた。
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さて、読者諸氏には陰ながらご支援頂き感謝申し上げます。そして
曽野綾子氏側の諸兄にご苦労様と申し上げたい。昨夜から当方の瑕疵
のある過去ログ「東日本大震災 許せない曽野綾子氏の傲慢その2」
がトップ表示されなくなったのは曾野綾子氏側のクリック作戦の中止
を意味するのか、一時中断なのかは今後をみるしかありませんが、曽
野綾子氏側の諸兄は総帥同様表層の部分に拘るあまり、何か勘違いし
ておられるようだが、当方のブログなど文章の良し悪しや出来不出来
で読まれる方はいません。心意気に感じて読んで頂いているはず。「作
家」ではないのだから何も隠すものなどない。当該の「許せない曽野
綾子氏の傲慢その1・その2」は冒頭の挨拶が最近まで「亡くなられた
方とご遺族に心からお悔やみ申し上げます」と非常識な文章になった
ままで訂正し忘れたブログでした。それを曽野綾子氏側に発見して頂
き、「見せしめ」の為に相当クリックして頂いたおかげで小生も気が付
いて訂正したのですが、所詮ブロガーの端くれです。それがせいぜい
といったところ。しかし、要は心意気ですよ。小生はブログで告白し
ているように「出来損ないの中学生」だったのと、いい年して、その延
長線上の人間でしかありません。建築業を永くやって不良に近い職人
を相手にしてきたせいもあって「上品」というものには縁がなく、どちら
かというと粗野で、不動産業をやるようになって少し大人しくなった
程度。また曽野綾子氏のことを書くようになって、文章を書く喜びを
わすがではあるが知ることができた。それと、もともと紋切り型の挨
拶が苦手というか抵抗があって、そういう言葉を使わずに来た。身内
を亡くされた方をどう慰めたらいいのか、言葉を見つけられず葬式に
参列しても「ご愁傷さまです」なんてなかなか言えなかった。ただ
「この度は・・・」と濁すだけ、その程度です。それが今回の名残となっ
ている。でも表出して頂いたおかげで再度自分の過去ログを読み直す
と、半年前は実に貧弱なブログだったが少しは書きなれて、2年前と
少しも変わらない曽野綾子氏と比べれば随分と進歩したではないかと
自画自賛中です。よろしく。
ところで、この間からの数値規制。これは期間を限定して行われた
ようだ。ただ残念なことは今回の数値規制で消えてしまったサイトが
あることだ。「曽野綾子」と銘打ったそのサイトは曽野綾子氏の著書
の紹介等のサイトや反曾野綾子の論調を展開するサイトを合わせて6
箇所ほどリンクさせていた。いつからか当方のブログを2記事リンク
していて極めて公平なサイトだった。例え当方のブログがリンクされ
ずとも当該の「曽野綾子」サイトが表示されることを切に願っている。
さてはて曽野綾子氏が「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個
人的記録」を出版して以来、つらつら考えていたことだが、どうもしっ
くりしないことがある。
先の当ブログ「曽野綾子氏よ、被災者の怒りを聞け!」で記載したある
被災者の怒り。541:吾輩は名無しである:2011/07/26(火) 23:15:52.08
のレスの声の中で述べられていた「今回で私は東日本大震災との
関わりを終えたい」という曽野綾子氏の撤退表明。7月26日に「W
ILL今月号」といえば7月号だ。この原稿の締め切りは5月末から6
月初旬と思われる。その頃には曽野綾子氏は「今回で私は東日本
大震災との関わりを終えたい」と記述していたことになる。ところが
その舌の根も乾かない2ヵ月後の8月には今回の「東日本大震災の
個人的記録」を編纂していたというから驚きだ。「関わりを終えたい」
と表明しながら一方では「関わり続ける」という、この見事なまでの
二枚舌は何なのか?批判されて「関わりを終えたい」と表明したの
に「老いの才覚」がトップセールスを記録したので、すっかり気を能
くして「関わり」を続ける気になったのか、はたまた出版社に担がれ
て、その気になったのか、いずれにしても「関わりを終えたい」と表
明したのに何のこだわりもなく豹変するなんて読者無視、国民無
視の曾野綾子氏らしいやり方だ。・・・・そこで、ふと思い出した。
二枚舌その一枚で身を破り 他の一枚で人を損なう
誰が詠んだか知らないが有名な「二枚舌」の狂歌だ。二枚舌は他人を
傷つけるだけではなく親しい人も無くしていくと昔の人は歌に託して
警告した。しかし、曾野綾子氏はそんなことには頓着もなく二枚舌を
やってのける、すばらしい文人だ。
では本論?に行こう。「第4章「適応力」が試されるとき」このようなタイ
トルをつけるからにはご自身は「適応力」があると自負しておられるの
でしょうね。曽野氏はうつ病を患った経験をお持ちだから言わせて頂く
が、うつ病を別名「適合(適応)障害」と呼ぶ医師もいるそうで、ひょっと
すると曽野氏は「適合障害」を克服したので人様の「適応力」や仕草が
いたく気になるのではないのか?例えば平成16年(2004年)の台風23号
の被災者に対する曾野綾子氏の記述。
「学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給さ
れていた。一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわか
らない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当
たり前だ。それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避
難するだけの個人の才覚の訓練が要る。お弁当なども行政は配る必
要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で
歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って
来るのが世界の当然だ」
さらに同年の中越地震では
「避難所で救援物資を当てにして待っている避難者は甘え過ぎだ。避難
する時に寝具を担いで逃げるのは当たり前。自分ならガス漏れの
心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。必要なものが手元にな
いのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」と「適応力」がない
から憤っているんだと云わんばかりだ。それらも「適応力」不足といえば
そうかもしれないが、「文化功労者」が被災者の一時の状態を見て大騒
ぎするなんてみっともないことこの上ない。もっと大きな視点に立って
ご覧になってはいかがですか?狭小に過ぎる。まるで家庭の主婦が騒い
でいるように見えて情けないなんてものじゃない。「適応力」についても
ネットを調べたらどうですか。少しは考えが変わるのではないか?ネット
には「適応力」についての面白いコラムもあるし・・・・。
「適応力について考える」日比野氏のコラム このコラムは日比野という
署名があるだけで日比野氏の出自は不明だが延1010万人が訪問して
いる人気コラムということだ。内容は元大リーガーの投手長谷川滋利
氏の著書「適者生存ーメジャーへの挑戦」から引用されて解りやすく解
説してある。このコラムこそ「適応力」の何たるかを教えている教科書だ。
そして、その「適応力」の最たるモデルが飯館村にあった。津波の被害に
こそ遭わなかったものの原発事故の計画的避難区域になって苦難の中
から立ち上がり今年10月にジャスダックに上場したある企業の話だ。
次のリンク先は公開を終了した模様です。悪しからず11/25
NHKニュース9「逆境に負けない!飯館村から皆で果たした上場」
曽野綾子氏よ、つまらんことを言う前に、こういう企業を取材すべだった
ろう。
次、「【1】震災と被曝~フクシマとヒロシマ」。週刊ポストの4月1日号の東
日本大震災の特集のコラムではヒロシマには一言も触れなかった。
「たった一回の地震で、日本の誇るあらゆる施設も物自体もそして当然
その結果としての制度や産業も、部分的にだが消失した。どんな事故
も、一瞬にして万単位の人を消し去ることはできない。私たちは千
年に一度の災害を体験し、その現実を教えられたのである」と記述した
ことに宇佐美氏が「曽野氏は、(一瞬にしてそれぞれ数万人以上が亡く
なった)広島、長崎をお忘れですか!? 」と注意を促している。これに対
し同胞意識は微塵もないのに一応反応して項目を設けたものと思われる。
宇佐美保氏のブログ「復興は平和の礎」
第一、フクシマに関しては原発事故を起こした東京電力を擁護しながら
「国民の方は昔から原発を『絶対に安全なのか』という言い方で追いつ
めてきた。『いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想
定して避難訓練もいたします』と原発側が言ったとすると『事故がおき
る想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対
に安全です』という子供じみた応答になる。しかし物事に『絶対安全』
ということはないのである。今後いかなるエネルギー政策をやろうと、
絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。
もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ。」
と発言し原発推進派の意見を代弁しておきながら、またもや詭弁なの
か二枚舌なのか、読まずとも底は知れている。ここで曽野氏には注
意申し上げるが、福島と広島をカタカナで列記するのは適当ではな
い。フクシマは原発事故の現場で働く東電の社員達を英雄視した
外国の報道に倣って表記したものが含まれていて、一方のヒロシ
マは悲惨な最後を遂げられた多くの戦争犠牲者と平和のシンボル
としての地名だ。カタカナで列記するのは極めて不謹慎だ。
こういうところも「文化功労者」としての曾野綾子氏の見識のなさを
表している。
そして、次の「【2】震災と援助~「超法規」の中で生きる」。こんなタイトル
を一ぱしつけてみたところで肝心のご本人が「超法規」という言葉を果た
してどこまで理解しておられるか疑問だ。なぜか?WILL6月号の渡部昇
一氏との対談「不幸からの贈り物が日本人を鍛える」の中で、理解力の
疑われている曽野綾子氏がしたり顔で意味不明のことをのたまうあたり
は滑稽の一言につきるからだ。。
曽野 「・・・・・・そして、電気が消えた時点で、民主主義というものは
停止するんです。公平も平等も機能しないんです。それがわかって
いない」と言った人が自分の言っていることをよく分っていないから手に
負えない。「民主主義」という意味をちゃんと理解していないから妙なと
ころで妙な使い方をしてしまう。
曽野綾子氏のこの発言に対して2Chのレスはこう告発する。
○停電時には普段と違った規律が必要だと言うのなら、今回の日本人
の東北や関東の被災者の行動は、世界で模範となるようなものだった
ろ? 合格点だ。曽野氏は「民主主義」を自分勝手主義と解釈してい
るのかね?そうなら、「民主主義」を抑制した日本人は適切な行動を
とっていたように思う。
○非常時にも秩序を失わなかった、被災地の方への侮辱だ
○電気が消えても民主主義は続くが、放射能が舞う中では、民主主義
は危うくなる。
○金のある者はより安全な場所に身を移し、貧しい者は避難できない
まま死ぬ。人の命を分ける不平等が姿を顕す。
この中には格言とも言うべき言葉がある。言い得て妙だ。
次の「第5章「安心病」との闘い」ご自分が「安心病」に罹っているのに
何を言うのですか?先の当ブログ「曽野綾子氏の間違いだらけの文章
作法」で暴露した様に氏は「曽野綾子」という偶像に胡坐をかいて甘えに
甘えて「安心病」に罹っているから文章修行も怠っている。人のことを言っ
ている場合ではないでしょう。自らの「安心病」と闘いなさい。まして去る
5月27日の産経新聞に掲載されたという氏の「『安心病』の特効薬は」
と題したコラムに「ニュースに出てくる・・・人たちが『安心して仕事を
始めたい、安心して子供を遊ばせたい』と言っているのを聞いて、
私はおかしな気分にとらえられた」。何度も言うが明らかに白痴の領
域。今それらの母親達の「安心して遊ばせたい」という声が放射能
線量測定となり除染活動となって作業が進められている。この種の
曽野綾子氏の発言は何を言っても空疎に聞こえる。
「【1】震災と運~誰にも操作できない力
【2】震災と責任~「絶対安全」神話の崩壊」
ここも前出の「フクシマとヒロシマ」に重複するので除く。
以下も除きます。
第6章 十人の美女の寝顔
内容(「BOOK」データベースより
世間知ずで不見識な曽野綾子氏よ
世間のことに口を出すのはお止めなさい。
みっ・と・も・ない
・・・・・・だそうです。
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