非才無才の雄叫び

つぶやくこと、叫ぶこと、すべてボケ防止だ!

東日本大震災 曽野綾子氏と我輩の「厚顔無恥」

2012-04-25 14:02:52 | 日記
曽野綾子氏の産経新聞のコラム「イエスマンの国」を読む
東日本大震災 曾野綾子氏の産経新聞「透明な歳月の光」の怪
自分の失敗をどうして曾野綾子さんと関連づけするの?と言ったら
「だって俺以上に『厚顔無恥』だからさ・・・。」だって・・・。

 また、やってしまった。先の当ブログ「曽野綾子の『生活保護
受給者』攻撃と『自殺のすすめ』」と「東日本大震災 曽野綾子氏と読
売新聞の『税と安心』」で、またもや当方の失態だ。書いた時には夢中
になっているので分らなかったが投稿した後で、何回か読み返すうちに、
おかしな部分があるのに気がついた。「碌な文章しか書けないのはなん
なのだ」と怒りを発している文章なのだが、ここで引っ掛かった。あれ
?これってどうだったっけ・・・・「禄でもない文章しか書けない・・・・・」
じゃなかったかなと思いながら、その後、1回、2回ブログを開いて読ん
だが、へんだなとは思いながらやり過ごした。3回目で、やはりおかし
いと思ってヤフー辞書で「碌」を調べたら「正常なこと。まともなこと。
満足できる状態であること」とある。ということは曽野綾子氏に「まと
もな文章しか書けない」と言って怒ったということになる。
こういう常識的なことも碌に書けないということは、全く学問のない
せいで、今まで書いてきたのはすべて付け焼刃の知識ということを自
ら暴露したことになった。自虐的だがブロガーの末席を汚す資格もない
のかも知れないが、そもそもこのブログは曽野綾子氏に対する怒りから
始めたことと、途中から当たり前の文章を書けるようになりたくて書き
続けて来たし、何よりもボケ防止になると思って続けていることなので、
失敗したからと言って、これが当方の常態だと思えば特に恥じ入ること
はないと思っている。曽野綾子氏の文章作法やその能力について容赦
なく攻撃してきたので、当方のこのような間抜けな誤謬は「厚顔無恥」
との誹りを免れないが、例えそうであろうと書き続けることこそ文章
上達の要諦だと思っている。
しかし、かつて当ブログで曾野綾子氏にサトウ八ローの詩の一節
「気取って似合うのは孔雀だけ」と揶揄したことがあったが、それがブ
ーメランのように帰ってきたということになる。当方のレベルでは作
文というのは多少気取りもないと普通の文章は書けない。普段は使った
こともない文言を使うことが普通の文章を書けるようになる早道だと思
っている。もっとも「碌な文章も書けない」というところの間違いは文
章云々以前の常識的なことなので、埒外と言うほかないが・・・。
つまるところこれも「無知」ということがもたらした「厚顔無恥」とい
う結果だ。折角書いても大事なところで躓く。全く当方の人生そのもの
だが、無知ということが人を「厚顔無恥」にさせるということでは
曾野綾子氏と当方は共通している そこで改めて「厚顔無恥」という
言葉についてネットを観てみると「厚顔無恥」の語源についての記載が
あった。語源由来辞典というのに「厚顔無恥の『厚顔』は、単独でも
あつかましく恥知らずなことを意味する。中国最古の詩集『詩経』に
『巧言くわうの如く、顔の厚きや』とあり、言葉巧みに乗り切り外面
を良く見せ内面の恥を隠すことを意味した。日本には平安時代頃、漢
文を通して『厚顔』が伝わり、内面の醜さをさす言葉として用いられ
た。・・・・
」とある。さらに「くわう」という意味が解らないので、
調べてみると「三国志小辞典」というのがあって、そこに「広」と
「黄」を「くわう」と読ませる項目があった。「広」は、県人と
あり、は「中国の下級役人で比較的俸給の高い者」とあった。
また「黄」の方は県令とあって「旧制で県知事が出した指令」とあっ
たので、ここでの「くわう」とは前者のつまり役人のことを指し
ているのだろう。中国のその当時の役人はよほど言葉が巧みで慇懃
無礼であったのであろう。
 ここで余談になるが、この「くわう」という言葉をなぜひらがなの
みで表記したのだろうかという疑問が残った。そもそもは漢詩なのだ
から、その部分は「広」となっていたはずなので、表記するのであれ
ば漢字の「広」にルビをふればいいものを、どうしたのだろう。
それで「広」という字をネットで調べると「広」の音読みの項に「コ
ウ、(クワウ)」とあるではないか。日本語の音読みの表記だったとは
驚きだ。括弧書きであると言うことは、少なくとも戦前もしくは明治
の頃には「広」を「クワウ」と読ませていたのではないか。さらに
中国語読みの項を見ると北京語として「guangグワング」「kuangクワ
ング」とある。ということはその昔、倭人は漢字の「広」の発音を聞
いて「クワウ」と聞き取ったいうことだ。それが近代になって「クワ
ウ」を約めて「コウ」と読ませるようになったと思われる。そうする
と「クワウ」は中国語の表音をひらがなで表記したに過ぎなかったい
うことになる。
 これであれば納得できるところがある。長崎県のおそらく85歳以上
の人は先生を「しぇんしぇー」と発音し、喧嘩を「けんくわ」と発音
することを若い頃聞いていた。嘩を「くわ」と発音していたので「く
わう」はさもあろうというところだ。
 話は横道に逸れてしまったが、広(くわう)が中国の官吏であるなら
当方などは官吏ほどの能力もないわけだから「厚顔」ということでは
全く埒外で、無知による単純ミスということだけになる。しかし、曽
野綾子氏の場合はどうなのか今ひとつ釈然としないので、同義語の
鉄面皮という言葉だったらどうかとネットを調べてみた。
紀元4世紀の中国の宋時代に書かれた『北夢瑣言(ほくぼうさげん)
に「進士王光遠、権豪を干索して厭う無く、或いは撻辱に遭うも、略
ぼ改め悔ゆる無し。時人云う「光遠、顔厚きこと十重の鉄甲の如し

王光遠という人が国家試験に受かって官吏になったのは良いが出世し
たくて形振り構わず上司のところへ行ったり権力者の所へ行ってへつ
らう様があまりにも酷くて世間では、その顔の皮が「十重の鉄甲」の
ようだと評したことから生まれた言葉が「鉄面皮」だという。だとす
るとこの言葉は曽野綾子氏にぴったりではないか。権力にへつらい、
自己撞着も恥じない様は正にうってつけだ。「鉄面皮無恥」という造
語で表現すると痛快な気分になる。なにせ曽野綾子氏は60年近い職
業作家でありながら60年近く間違いを直さずに来た。相当の度胸がな
ければそんなことは出来ない。だから曽野氏は「厚顔無恥」よりも
造語の「鉄面皮無恥」こそお似合いだ。
とにかく人のことは容赦なく言うが、自分は間違いだらけ・・・・これく
らいの「厚顔無恥」なところもないと曽野綾子氏には太刀打ちでき
ないってことと
自らを励ましている。 

反曾野綾子ブロガー諸兄

ですよね・・・・・だそうです。



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