非才無才の雄叫び

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麻生副総理のナチ発言擁護!橋下大阪市長は余分なことを言うな。

2013-08-02 17:37:25 | 日記
曾野綾子氏の「人間にとって成熟とは何か」の欺瞞!
あ~あ、橋下徹大阪市長
「文脈?」「国語力?」「ブラックジョーク?」
あ・そうさんを擁護したいのだろうけど、「文脈」などと言っても
通用しないだろうーっ。
著名な人間の話やニュースは世界中に発信されるというのに
「文脈」や「国語力」と言って何になる。相手にはアングロサ
クソンや日本と敵対している国もある。
自分は「従軍慰安婦」関連の発言で「文脈」が理解してもらえ
なくて狂奔してたくせに・・・・。
「国語力」?
yahooニュースに橋下大阪市長が、麻生副総理を擁護したという
ニュースあった。

「日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は1日、麻生副総理
の発言について大阪市役所で記者団の質問に答え、「ちょっと
行き過ぎたブラックジョークだったのではないか
。ただ、ナチ
スドイツを正当化した発言でないのは、国語力があれ
ばすぐ分かる
」と擁護した。
 橋下氏は「表現に問題があれば(麻生氏が)修正されればい
い」と前置きした上で、「憲法がある中でナチスドイツが生ま
れてきた経緯もある。『手口』という言葉をわざと使ったのも、
改憲論議を心してやらないといけないという趣旨だったのでは」
と分析した
。」

「国語力」?どの程度の国語力があれば理解できるのか?
「国語力があればすぐ分かる」というのは、あ・そうさんの
ことを報道したメディアに「国語力がない」と言いたいのだろう?
憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わ
って、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかない
で変わった。あの手口学んだらどうかね
。」
「手口を学べ」は「国語力」でどう理解したら良いのか?
漫画ばっかり読んでて「国語力」のない麻生さんの話を
どの程度の国語力で理解しろと言っているのか?「手口を学んだ
らどうかね」と言うまでの「文脈」だったらナチスを賛美し
ていることにはならないが「手口を学んだらどうかね」の部分は
明らかにナチスの手口は学ぶ価値があるとナチを肯定している
ではないか。橋下市長の国語力ではナチを否定していることに
なるのか?拡大解釈すると賛美していることになるだろうに。
「文脈」?さんざん自分は「文脈」を理解してもらえなくて
苦労したばかりだろう?アングロサクソンや敵対する中国や
韓国が日本国語の「文脈」を理解するはずがないではないか。
あ・そうさんの講演の全文を読んでみると、憲法改正の論議
は粛々とやるべきだというのが論旨だろう?だったら、なにも
ヒトラーやナチスの話をわざわざ持ち出さなくても、論旨を
展開できるはずだ。にも関らず話題にした。しかも例えで持
ち出した割にはナチスやワイマール憲法について、麻生副総理
の言っていることはデタラメではないか。
ウィキペディアやyahoo辞書を読む限り、ワイマール憲法が
ナチス憲法になったという記述はない。
ウィキペディア
1919年8月11日制定、8月14日公布・施行。
アドルフ・ヒトラー支配下の「ドイツ第三帝国(ナチ・ド
イツ)」期において、ヒトラーはヴァイマル憲法に替わる
新たな憲法を制定することはなかったため、ヴァイマル憲
法はなおも存続し続けた。形式的にいうと、ヴァイマル憲
法は1949年5月23日のドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)
に替わるまで存続したことになる。しかしこれはあくまで
形式的なことで、実質的には1933年3月23日の全権委任法の
成立によって効力を失ってしまった
。」
しかも「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わ
って、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかな
いで変わった。あの手口学んだらどうかね。 わーわー
騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、
あの憲法変わっているからね
。」
ウィキペディアを見ると以下のとおりだ。
1929年の世界恐慌によって急速に景気の悪化したドイツ
では、街に大量の失業者が溢れかえり社会情勢は不安の一
をたどっていた。さらにヤング案への反発がドイツ社会民
主党政府への反感のもととなった。
同じくドイツ共産党も社会的混乱に乗じて伸張し、1930年
の国会選挙ではナチスが得票率18%、共産党が得票率13%を
獲得し、社民党の得票率24.5%に次ぐ第二党と第三党に成長し、
各地の都市でナチス党の私兵部隊「突撃隊」と共産党の私兵
部隊「赤色戦線戦士同盟
」の私闘が激化するようになった。
選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」を
スローガンにし、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊
説などで国民に鮮烈なイメージを残した。第一次選挙の結果は
ヒンデンブルク1865万1497票(得票率49.6%)、ヒトラー1133
万9446票(得票率30.2%)、テールマン498万3341票(得票率
13.2%)、ディスターベルク255万7729票(得票率6.8%)、ヴ
ィンター11万1423票(得票率0.3%)となり、ヒトラーは他の
候補と大きく差をつけた2位となっただけでなく、現役大統
領ヒンデンブルクの得票率過半数獲得を防ぐ善戦をした。

ヒンデンブルク大統領の承認を得たヒトラーは国家人民党の協
力を取り付けることに成功し1933年1月30日、ついにヒトラー内
閣が発足した。ヒトラーは首相就任直後の施政方針演説にて、
(1)国際協調と平和外交、(2)ワイマール憲法の遵守と憲法48条
(大統領緊急令による基本的人権の停止条項)の濫用抑止、(3)
多党制の維持(共産党の活動も制限しない)の3大方針を示した
がこれらが嘘であることは後述のとおりすぐに明らかになった。

内閣発足の2日後である2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日
を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事
件が発生した(ドイツ国会議事堂放火事件)。ヒトラーとゲーリ
ングは共産主義者蜂起の始まりと断定し、直ちに共産主義者の逮
捕を始めた。翌28日にヒンデンブルク大統領に憲法の基本的人権
条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統
領緊急令を発令させた。この状況下の3月5日の選挙ではナチスは
議席数で45%の288議席を獲得したが、単独過半数は獲得できなか
った。しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されており、さら
に社会民主党や諸派の一部議員も逮捕された。これらの議員を
「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規
則を改正することで、ナチ党は憲法改正的法令に必要な3分の2の
賛成を獲得出来るようになった。

3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法
可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。7月14日には
ナチ党以外の政党を禁止し、12月1日にはナチ党と国家が不可分の
存在であるとされた。以降ドイツではナチ党を中心とした体制が
強化され、党の思想を強く反映した政治が行われるようになった。

国会議事堂放火事件の政治利用[編集]
大統領令2月28日、ヒトラーは閣議にコミュニストと「法的考慮に
左右されず決着をつける」ためとして[7]、 「国民と国家の保護
のための大統領令(ドイツ語版)」と「ドイツ国民への裏切りと
反逆的策動に対する大統領令 の二つの緊急大統領令の発布を提
議した。パーペンが「バイエルン州で反発を受けるかもしれない」
と意見を述べたのみで、ほとんど修正される事無く閣議決定され
た。パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領も黙って承認し、国
家防衛緊急令は即日、反逆防止緊急令は翌日公布された。これに
より言論の自由や所有権は著しく制限され、政府は連邦各州の全
権を掌握できるようになった。

3月1日、ゲーリングはラジオ放送で「共産主義を我々の民族から
抹殺することが、私の最も重要な責務である」と述べ、「(国家
社会主義)革命の敵に対しては、テロルの使用が不可欠である」
と政府による白色テロを宣言した。共産主義者は次々と警察によ
って予防拘禁され、2日後には無政府主義者、社会民主主義者も
対象に加えられた[8]。

また、共産主義者の襲撃が起きるというデマが流され、共産党や
民主主義政党の集会はナチス党の突撃隊に襲われ、共産党の指導
者を含めた逮捕者や死者も続出した。選挙期間中に死亡したナ
チス党員は18人、その他の政党の死者は51人、負傷者は数百人に
のぼった。

選挙の結果、100議席を持っていた共産党は81議席へと後退した。
一方ナチス党は199議席から288議席へと躍進したが、全体の647
議席の過半数獲得には至らなかった。

1933年3月23日、全焼した国会議事堂に代えて臨時国会議事堂と
なったクロールオペラ劇場で総選挙後初の本会議が開催された。
出席した議員の数は535人であり、共産党議員81人、社会民主党
議員26人、その他5人の議員は病気・逮捕・逃亡等の理由で
「欠席」した。

出席した社会民主党議員は全員が反対したものの、ナチス党は
ドイツ国家人民党と中央党の協力を得て3分の2の賛成を確保し、
全権委任法を成立させた。この法律は国会審議・議決
なしに、大統領の副署なしに広範な範囲の法会を制定する権利
をヒトラー政権に委譲するものであった。議場の周辺には親衛
隊がピケラインを張り、議場内の廊下には突撃隊員が立ち並ん
でいたという


以上がウィキペディアの抜粋。

憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、
ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わ
った。あの手口学んだらどうかね。・・・・本当に、みんない
い憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね
。」
ウィキペディアを読む限り、麻生さんの言説はデタラメだと
いうことが解る。何でこういうことを平気でしゃべるのか?
「手口」という言葉にしても、ナチスに対する認識にして
も「ゴルゴ13」からの知識ではないのか?
にもかかわらず橋下市長は「『手口』という言葉を
わざと使ったのも、改憲論議を心して
やらないといけないという趣旨だったのでは
・・・・政治家が
やろうとすると、こういう批判が起こる。エンターテインメ
ントの世界ならいくらでもありますよ
」と慮るが、「わざと」
ではないだろう。麻生さんは「ゴルゴ13」ばかり読んで
いるから自然と口に出たんだよ。
そして早速、米国のユダヤ系団体幹部から「ブラックジョークだった」
と擁護した橋下徹大阪市長に、「(広島、長崎、大虐殺について)
「ブラックジョークとして扱ってはならない事柄がある」と
批判したというニュースが流れた。ナチスの延長線上に大虐殺
「ホロコースト」があり、ドイツではナチス、ヒトラーの賛美や
肯定を禁止する刑法があるようだし、ホロコーストで民族抹殺
の危機に直面したユダヤの人々の反発は当然のことだ。
橋下市長!それでも「エンターテインメントの世界ならいくら
でもありますよ」と反論することが出来るのか?

問題は、麻生さんが現閣僚ということだけではなく、
元総理で外務大臣経験者なのに、ドイツやユダヤの人々に
対する配慮がなかったということだろう

それなのに橋下大阪市長は、麻生さんを擁護したことは
何か裏があるのではないかと、痛くもない腹を探られて、ま
すます民意が維新の会から離れていくぞ。
大阪都構想や自治体関連の質問以外は「ノーコメント」を貫い
たほうが良いのでは・・・・。

麻生さんの講演の全文をネットで拾ったので転記させて
頂く。ご参考に。

僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話
がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きち
んとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラー
はいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違います
よ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを
選んだんですよ。間違わないでください。
 そして、彼はワイマール
憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、
ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはあ
りうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないと
いけないところであって
、私どもは、憲法はきちんと
改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運
営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であ
ったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持であっ
たり、そうしたものが最終的に決めていく。
 私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況に
なっていると認識していますから、それなりに予算で対応して
おりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、2
0代、30代の方が極めて前向き。一番足りないのは50代、
60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私ら
から言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代
でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、
バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶ある
ときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。
 この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、
60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世
代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。
しかし、そうじゃない。
しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、
みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、
書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃ
べちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り
上げた。そういった思いが、我々にある。
そのときに喧々諤々、やりあった。30人いようと、40人い
ようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあ
いもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』
と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『し
かし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の
若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考
え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のす
ごいところだなと。何回か参加してそう思いました。
ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私ど
もは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。
靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎに
するのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出
してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかし
い。静かに、きちっとお参りすればいい。
何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。
大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また
話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったお
かげで、えらい物議をかもしたこともありますが。
僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立
した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて
靖国神社に拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必
ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。
昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。い
つから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎ
になった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎ
ますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日
気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっ
ていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学ん
だらどうかね。
 わーわー騒がないで。本当に、みん
ないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。
ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはま
ったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、
喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。