続きです。
「日本から見れば、侵されては困るぎりぎりの国益と名誉という
ものがあります」
藤井君、これは君の意見のようだが、日本軍の強硬派の意見を代弁
したものと受け取れる。自国の旧政治体制側に立った論評は
「国際政治ジャーナリスト」がやるべきことではない。
「日本帝国政治ジャーナリスト」と名乗った方が良いのでは
ないか。
フィッシュは先のブログで触れたように、ナチス・ドイツの
スパイ容疑がかけられた人物なので、これ以上、この人物に
言及する必要はないだろう。
さて次の「アメリカを侵略する共産主義の脅威」
アメリカが共産化しようが、日本に関係ないだろうと言いたいが
藤井氏の意図は、共産主義は悪、それに近いルーズベルトも
悪という図式で、読者を誘導しようとしている。
「ルーズベルトは、とにかくアメリカのブログレッシビズム、
進歩主義を代表する人でした。日本で言えば、革新のチャンピオン
みたいな人です。だから共産主義にも近かったし、社会主義政策
もやったし、、スターリンとも親しかったのです」
ところがウィキでは
「アメリカ合衆国の進歩主義時代(英: Progressive Era)は、
1890年代から1920年代にかけて、社会と政治の改革が著しく
進んだ時代である。・・・多くの人々が地方政府、公共教育、
医療、財政、保険、工業、鉄道、教会など多くの分野で改革の
努力を行った。進歩主義者達は、社会科学、特に歴史学、
経済学、政治学の分野を変化させ、専門化させ、「科学的に」
させた。学術分野ではアマチュア執筆家の時代が終わり、
学術雑誌や新聞に記事・論文を掲載した研究の専門家の時代
になった。国政の指導者には、共和党員ではセオドア・
ルーズベルト、ロバート・M・ラフォレット・シニア、
チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ、ハーバート・フーヴァー、
民主党員ではウィリアム・ジェニングス・ブライアン、
ウッドロウ・ウィルソン、アル・スミス等がいた」
何を言っているのだ?
アメリカ進歩主義者の中に、政治家では、共和党の
「ハーバート・フーヴァー」の名前があるではないか。
ルーズベルトの名前は出ていないではないか。
どういうことだっ
これは極めて悪質なデマゴギーになるぞ。
捏造だろ。
こんな汚い手を使って、
ネットを参照できない読者を
騙そうってのかっ
だから一切、脚注などつけなかったのだな?
とにかく藤井氏はルーズベルトを共産主義と関係づけようと
しているが、ニューディール政策はケインズ経済学を基礎に
していると言われている。
「ニューディール政策はそれまでアメリカの歴代政権が取っ
てきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる
古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的
に関与する政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後
の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた。
世界で初めてジョン・メイナード・ケインズの理論を取り
入れた」と言われるが、彼の著書『雇用、利子および貨幣の
一般理論』は1936年に出版されており、ニューディール政策
が開始された1933年よりも後である。原案は、いち早く世界
大恐慌から脱した日本の高橋是清が考案した政策(時局匡救
事業)と大半の部分で共通している」
藤井氏は懲りずに妄言をくりだす。
「33年、ルーズベルトがソ連を承認したことによって、アメリカに
対するソ連共産主義の侵略が、日増しに激しくなっていくのです。
それ以降、共産主義は表のドアから公然と入ってくるようになり、
労働組合などを通じて様々な社会運動がアメリカで広がるように
なります」
今時、共産主義に対するこれほどのアレルギーは時代錯誤だ。
念のためにウィキでは
「1919年にアメリカ社会党から分離した2つの政党アメリカ共産党
と共産主義労働党が1920年代初頭に合同して成立。最初、党名は
「Workers (Communist) Party」だったが1929年に現行の
「Communist Party of the United States of America」へ改名す
る。当局の弾圧もあって1920年代は停滞したが、1929年の世界恐
慌を期に勢力を拡大し、1930年代に最盛期を迎えた」
「1929年に大恐慌が米国を襲い、労働運動や社会改革運動が再び
台頭の兆しをみせるなかで、共産党は学生運動や労働運動、公民権
運動などに着手し、大衆運動に影響力を拡大しはじめる。他方で
1930年代にはスターリンのモスクワ裁判を支持するなどの教条主義
的、硬直的な態度は知識人や学生に幻滅をあたえ、後に「ニューヨ
ーク知識人」と呼ばれるようになった社会学者のリチャード・ホフ
スタッターやダニエル・ベルらは離党し、敵対していく」
フーヴァーが1929年に大統領になってから、アメリカ共産党が
勢力を拡大している。
「1932年全国産業復興法(NIRA)が議会を通過し、翌1933年には
ヒトラーがドイツで政権を掌握すると、それまで対立していたアメ
リカ労働総同盟(AFL)に党員を大量に入党させるなど他勢力との
協調の道を探り始め、コミンテルンの人民戦線路線を積極的に採用
し、ニューディール・リベラルなどとの共同関係を強めて反ファッ
ショ運動の一翼を担う。そのなかでもとりわけ有名なのは、スペイ
ン共和国支援のための国際旅団「エイブラハム・リンカーン大隊」
である。リンカーン大隊は労働者を中心とする義勇兵の部隊で、
1938年に撤退するまで前線で戦い続けた。リンカーン大隊の副官
オリバー・ローはアフリカ系アメリカ人で、彼は合衆国の歴史上
、白人と黒人の混成部隊では初の黒人指揮官だった。また炊事兵の
ジャック白井は日本の函館から来た移民だった」
このレベルだったらアメリカ共産党は、比較的に健全だった
と言える。
しかし、フーヴァーの間違った政策で失業者が溢れ、それがアメリ
カ共産党の躍進に繋がった。
フーヴァーの失策
「対外的にはスムート=ホーリー法のもとで保護貿易政策を
とった。このことは、世界恐慌を深刻にさせた一因とも指摘
される。・・・フーヴァーは政府や国家レベルでの対策しか講
じなかった。これが、結果として景気をさらに悪化させることに
なってしまう。・・・結局フーヴァーは、世界恐慌に
対して有効な政策が取れず、赤十字頼みとなり、1932年の大統
領選挙で対立候補の民主党フランクリン・ルーズベルトに40州以上
で敗北する歴史的大敗を喫した。
1933年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した」
当時は全米48州だったようで、「40州以上で歴史的大敗」という
と、41~42州でフーヴァーは負けたのではないか。
そのショックは大変なもので、その悔しさが回顧録を書く動機と
なって、異常ともいえる反ルーズベルト一色で書き綴られていた
ものと思われる。
回顧録「フリーダム・ビドレイド」を出版するのに50年もかかっ
たというが、
それは歴史的な不人気の大統領の汚名をアメリカ国民が
忘れるのに50年もかかったと言った方が正解だろう。
「日本から見れば、侵されては困るぎりぎりの国益と名誉という
ものがあります」
藤井君、これは君の意見のようだが、日本軍の強硬派の意見を代弁
したものと受け取れる。自国の旧政治体制側に立った論評は
「国際政治ジャーナリスト」がやるべきことではない。
「日本帝国政治ジャーナリスト」と名乗った方が良いのでは
ないか。
フィッシュは先のブログで触れたように、ナチス・ドイツの
スパイ容疑がかけられた人物なので、これ以上、この人物に
言及する必要はないだろう。
さて次の「アメリカを侵略する共産主義の脅威」
アメリカが共産化しようが、日本に関係ないだろうと言いたいが
藤井氏の意図は、共産主義は悪、それに近いルーズベルトも
悪という図式で、読者を誘導しようとしている。
「ルーズベルトは、とにかくアメリカのブログレッシビズム、
進歩主義を代表する人でした。日本で言えば、革新のチャンピオン
みたいな人です。だから共産主義にも近かったし、社会主義政策
もやったし、、スターリンとも親しかったのです」
ところがウィキでは
「アメリカ合衆国の進歩主義時代(英: Progressive Era)は、
1890年代から1920年代にかけて、社会と政治の改革が著しく
進んだ時代である。・・・多くの人々が地方政府、公共教育、
医療、財政、保険、工業、鉄道、教会など多くの分野で改革の
努力を行った。進歩主義者達は、社会科学、特に歴史学、
経済学、政治学の分野を変化させ、専門化させ、「科学的に」
させた。学術分野ではアマチュア執筆家の時代が終わり、
学術雑誌や新聞に記事・論文を掲載した研究の専門家の時代
になった。国政の指導者には、共和党員ではセオドア・
ルーズベルト、ロバート・M・ラフォレット・シニア、
チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ、ハーバート・フーヴァー、
民主党員ではウィリアム・ジェニングス・ブライアン、
ウッドロウ・ウィルソン、アル・スミス等がいた」
何を言っているのだ?
アメリカ進歩主義者の中に、政治家では、共和党の
「ハーバート・フーヴァー」の名前があるではないか。
ルーズベルトの名前は出ていないではないか。
どういうことだっ
これは極めて悪質なデマゴギーになるぞ。
捏造だろ。
こんな汚い手を使って、
ネットを参照できない読者を
騙そうってのかっ
だから一切、脚注などつけなかったのだな?
とにかく藤井氏はルーズベルトを共産主義と関係づけようと
しているが、ニューディール政策はケインズ経済学を基礎に
していると言われている。
「ニューディール政策はそれまでアメリカの歴代政権が取っ
てきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる
古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的
に関与する政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後
の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた。
世界で初めてジョン・メイナード・ケインズの理論を取り
入れた」と言われるが、彼の著書『雇用、利子および貨幣の
一般理論』は1936年に出版されており、ニューディール政策
が開始された1933年よりも後である。原案は、いち早く世界
大恐慌から脱した日本の高橋是清が考案した政策(時局匡救
事業)と大半の部分で共通している」
藤井氏は懲りずに妄言をくりだす。
「33年、ルーズベルトがソ連を承認したことによって、アメリカに
対するソ連共産主義の侵略が、日増しに激しくなっていくのです。
それ以降、共産主義は表のドアから公然と入ってくるようになり、
労働組合などを通じて様々な社会運動がアメリカで広がるように
なります」
今時、共産主義に対するこれほどのアレルギーは時代錯誤だ。
念のためにウィキでは
「1919年にアメリカ社会党から分離した2つの政党アメリカ共産党
と共産主義労働党が1920年代初頭に合同して成立。最初、党名は
「Workers (Communist) Party」だったが1929年に現行の
「Communist Party of the United States of America」へ改名す
る。当局の弾圧もあって1920年代は停滞したが、1929年の世界恐
慌を期に勢力を拡大し、1930年代に最盛期を迎えた」
「1929年に大恐慌が米国を襲い、労働運動や社会改革運動が再び
台頭の兆しをみせるなかで、共産党は学生運動や労働運動、公民権
運動などに着手し、大衆運動に影響力を拡大しはじめる。他方で
1930年代にはスターリンのモスクワ裁判を支持するなどの教条主義
的、硬直的な態度は知識人や学生に幻滅をあたえ、後に「ニューヨ
ーク知識人」と呼ばれるようになった社会学者のリチャード・ホフ
スタッターやダニエル・ベルらは離党し、敵対していく」
フーヴァーが1929年に大統領になってから、アメリカ共産党が
勢力を拡大している。
「1932年全国産業復興法(NIRA)が議会を通過し、翌1933年には
ヒトラーがドイツで政権を掌握すると、それまで対立していたアメ
リカ労働総同盟(AFL)に党員を大量に入党させるなど他勢力との
協調の道を探り始め、コミンテルンの人民戦線路線を積極的に採用
し、ニューディール・リベラルなどとの共同関係を強めて反ファッ
ショ運動の一翼を担う。そのなかでもとりわけ有名なのは、スペイ
ン共和国支援のための国際旅団「エイブラハム・リンカーン大隊」
である。リンカーン大隊は労働者を中心とする義勇兵の部隊で、
1938年に撤退するまで前線で戦い続けた。リンカーン大隊の副官
オリバー・ローはアフリカ系アメリカ人で、彼は合衆国の歴史上
、白人と黒人の混成部隊では初の黒人指揮官だった。また炊事兵の
ジャック白井は日本の函館から来た移民だった」
このレベルだったらアメリカ共産党は、比較的に健全だった
と言える。
しかし、フーヴァーの間違った政策で失業者が溢れ、それがアメリ
カ共産党の躍進に繋がった。
フーヴァーの失策
「対外的にはスムート=ホーリー法のもとで保護貿易政策を
とった。このことは、世界恐慌を深刻にさせた一因とも指摘
される。・・・フーヴァーは政府や国家レベルでの対策しか講
じなかった。これが、結果として景気をさらに悪化させることに
なってしまう。・・・結局フーヴァーは、世界恐慌に
対して有効な政策が取れず、赤十字頼みとなり、1932年の大統
領選挙で対立候補の民主党フランクリン・ルーズベルトに40州以上
で敗北する歴史的大敗を喫した。
1933年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した」
当時は全米48州だったようで、「40州以上で歴史的大敗」という
と、41~42州でフーヴァーは負けたのではないか。
そのショックは大変なもので、その悔しさが回顧録を書く動機と
なって、異常ともいえる反ルーズベルト一色で書き綴られていた
ものと思われる。
回顧録「フリーダム・ビドレイド」を出版するのに50年もかかっ
たというが、
それは歴史的な不人気の大統領の汚名をアメリカ国民が
忘れるのに50年もかかったと言った方が正解だろう。