非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽18

2020-10-08 11:23:59 | 日記
長々と転記して申し訳ありませんが、ウィキ「マッカーサー」
の続きです。今回も長々と転記しますが、最後まで目を通して
いただければ幸いです。

しかし、これからがマッカーサーの嘘も方便の「真骨頂」です。
日独伊三国同盟が締結され、日本軍による仏印進駐が行われる
と、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米
資産を凍結し、日米通商航海条約の失効もあって極東情勢は一気
に緊張した・・・マッカーサーも1941年7月にルーズベルトの要
請を受け、中将として現役に復帰した。アメリカ軍とフィリピン
軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった


日本軍がアメリカの植民地・フィリピンに近い仏印(:現在のベト
ナムカンボジア等)に進駐したので、直ちにルーズベルトは臨戦
態勢を敷いたということだ。

1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤで開戦、次いでハワ
イ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。
12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオで
真珠湾の攻撃を知りマッカーサーに報告、ワシントンからも3時
40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーは真珠湾
で日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時間を無駄に浪費
した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレアト
ン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制
攻撃をかけるべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに
却下した


夜が明けた8時から、ブレアトンの命令によりB-17は日本軍の
攻撃を避ける為に空中待機していたが、ブレアトンの3回目の提
案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は
11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載しはじめた。
B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分
に日本軍の海軍航空隊の零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸
上攻撃機合計106機がクラークフィールドとイバフィールドを
襲撃した。・・・・12月13日には残存機は20機以下となり、
アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した


ブレアトン少将の提案を直ちに受け入れていれば、日本軍の爆撃を
交わして日本軍を迎え撃つことができたかも知れない。

続いて「人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサー
は、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」
と信じ、その旨を報告した。また、「日本軍の陸軍、海軍機あわせ
て751機が飛来し、彼我の差は7対3という圧倒的不利な状況下
にあった
」と実際とは異なる報告をしている。・・・・
マッカーサーらは「2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』し
ている
」と、・・・ワシントンではフィリピンの対応に苦慮
しており、洪水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電
してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサ
ーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーは
かつてないほど大きなベイビーになっている
。しかし我々は彼
をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記
している


マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに
流し続けた。12月10日のビガン上陸作戦時にアメリカ軍のB-17が
軽巡洋艦名取を爆撃し至近弾を得たが、B-17が撃墜されたため
その戦果が戦艦榛名撃沈、さらに架空の戦艦ヒラヌマを撃沈したと
誤認して報告されると、マッカーサー司令部はこの情報に飛び付き
大々的に宣伝した。・・・マッカーサー司令部は継続して
「ジャップに大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には
全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間
雅晴は敗北のために面目を失い、ハラキリナイフでハラキリして死
にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将は
フィリピンにおける日本軍司令官本間雅晴中将はハラキリした
との報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は
2月26日にマニラで執行された」と公式声明を発表した。
さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は
山下奉文である」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった

上記の太字の部分がプロパガンダだ。
実際は本間雅晴中将は自決等していなくて
戦後はバターン死の行進における部下の行為の責任を問われ
て銃殺刑に処された


そして日本でのGHQ統治中の朝鮮戦争勃発後の対応。
中ソの全面介入を恐れるトルーマンは、「陸海軍はいずれの
場合も国境を越えてはならない」「国境付近では韓国軍以外の
部隊は使用しない」「中国東北部およびソ連領域への空海から
の攻撃を禁止する」という制限を設けた。中ソの全面介入の防
止の他にも、ホイト・ヴァンデンバーグアメリカ空軍参謀総長は、
空軍の作戦域を拡大することで自然・戦闘損失で空軍力を消耗し、
その補充のために2年間はヨーロッパ方面の防空力が裸になると
考え、国防総省もその考えを支持し、マッカーサーにも伝えら
れた。しかしこの作戦制限は、全面戦争で勝利することが信条
のマッカーサーには、束縛以外の何物にも感じられなかった


「10月15日にウェーク島で、トルーマンとマッカーサーは朝鮮
戦争について協議を行った。・・・その後の会談ではマッカーサ
ーが、「どんな事態になっても中共軍は介入しない」・・・・
10月17日にはトルーマンの指示を破り、その最深到達点を中間
点に変え、さらに国境深く前進するように各部隊司令官に命令
した。中朝国境に近づけば近づくほど地形は急峻となり、補給
が困難となっていったが、マッカーサーはその事実を軽視した。
マッカーサーのこの作戦指揮は、毛沢東の思うつぼであった


中国の義勇軍の人海戦術に押され、マッカーサーとワシントン
はパニック状態に陥っていた。マッカーサーは大規模な増援と、
原爆使用も含めた中国東北部空爆を主張したが、・・・中国東北
部への爆撃は戦争の拡大をまねき、また原爆については、朝鮮の地
勢と集約目標がないため現実的ではないと否決された。マッカー
サーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲
の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と作戦に制限
を設けているトルーマンをこき下ろし、また中国軍に追われ敗走
しているのにもかかわらず「戦術的な撤退であり、敗走などと広く
宣伝されているのは全くのナンセンスだ」と嘯いた。トルーマンは
激怒し、ワシントン中枢のマッカーサーへの幻滅感は増していっ
た。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀
本部に命じてマッカーサーに対し、公式的な意見表明をする場合
は上級機関の了承を得るようにと指示させたが、マッカーサーは
この指示を無視し、その後も政治的な発言を繰り返した


しかし、リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは
十分可能であると判断しており、中国軍の第3期攻勢を撃破する
と2か月で失地を取り戻し、1951年3月には中国軍を38度線まで
押し返した。戦況の回復はリッジウエイの作戦指揮によるもの
で、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思った
マッカーサーは脚光を浴びるためか、東京から幕僚と報道陣を
連れて前線を訪れた
。しかしある時、リッジウェイが計画した
作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れて報道陣に作戦の開始
時期を漏らしてしまい、リッジウェイから自重してほしいとた
しなめられている。・・・リッジウェイは自伝でマッカーサーを
自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそ
れを受けたがる
」と評している


トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この
停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、
1951年3月24日に一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下に
おいても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明
らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれている
ことを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談す
る用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは
中国への実質的な「最後通牒」に等しく、中国を強く刺激した。
また、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マー
ティン・ジュニア前下院議長からマッカーサーに宛てた、台湾
の国民党兵力を利用する提案とトルーマン政権のヨーロッパ
重視政策への批判の手紙に対し、マッカーサーがマーティンの
意見への賛同とトルーマン政権批判の返事を出していたことが
明らかになり、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビ
リアン・コントロール違反が相次いで行われた。

これは、1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じて
指示した「公式的な意見表明は上級機関の了承を得てから」にも
反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくな
った」と激怒した・・・もはやマッカーサーを全く信頼してい
なかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した


マッカーサーのこれほどの自信過剰は、どこから出てきたのか。
自らを軍事の天才と自負していたのと、本国からフーヴァーら
共和党からの声援・支援があったものと思われる。

申し訳ありませんが、マッカーサーについては再度、割愛して
お知らせしますので、悪しからず。

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