曾野綾子氏の「人間にとって成熟とは何か」の欺瞞!
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1
東日本大震災と曽野綾子さんについては、もう終わるのか
なと思いきや次をもう書くのですって・・・。
又もや削除の洗礼を受けているようだ。曾野綾子氏の近著のタイ
トルを当ブログのタイトルに入れてWEBで上位表示されてきた途端、
そのタイトルの当ブログが突然、当該キーワードの30ページ以内
にも見当たらなくなった。よほど神経を尖らせているようだ。なら
ばタイトルから曾野綾子氏の近著のタイトルを冠しなければどうだ
ろう。このように普遍的なキーワードを使ったタイトルだったら削
除できるだろうか。いや、それでも表示されないところを
見ると数値規制をポータルサイトに依頼したようだ。最近、上位に
当ブログおよび当ブログを2記事リンクさせたものが5箇所表示され
そのうち「『揺れる大地に立って』の欺瞞」がもろに見えるものが
2カ所。曽野氏もよほど癪に障ったのだろう。
曽野綾子氏の近著「揺れる大地に立って」は出版社、書店業界挙
げての宣伝合戦の様相を呈している。先の「老いの才覚」が100万
部を突破したためか、ネットを見る限り柳の下を狙う業者たちの蠢
きはすざましいかぎりだ。あまりの騒がしさに売れ筋ランキングを
覗いてみたが上位300冊の中に、その形跡はない。従って早稲田
大学教授・吉村作治氏の書評をもってテコ入れを図らざるを得ない
のだろう。またそれは別の狙いもあるようだ。つまり著名な吉村氏
に書評を依頼することでネットで目障りな当方のような雑魚どもを
蹴散らしたいのだろうが、そう容易く撃退されはしない。なぜかと
言えば、親しい人に書評を依頼しても、親しいだけに褒めちぎっ
たうえに当たり障りのないことしか書けなければ書評というより、
それはむしろ推薦文に過ぎない。それでは読者を納得させられ
ないし、吉村氏は読者の期待を裏切ることになり、引いては考古学
者としての自らの名声に傷をつけることになるだろう。
しかし、「老いの才覚」がヒットしたのはなぜか?それは曽野綾
子氏の文才ではなく氏もおそらく気づかないであろう氏の持って生
まれた商才がなさしめるものではないか。老人としての経験と時節
を捕らえて、すかさず「老いの才覚」と題したものを書き下ろした
才能は商機を逃さない類まれな商才と言うほかない。これは言って
みれば「父親譲り」である。父親とはもちろん笹川良一氏。商才と
いうことから考えると「笹川良一父親説」は俄かに信憑性を帯びて
くるからだ。笹川良一父親説が本当なら曽野綾子氏は道を間違えた
ことになる。文壇に入らず商売の道に入っていたら、うつ病になる
こともなく父親笹川良一氏譲りの商才を発揮して財界に君臨したか
もしれない。褒めちぎって何を言いたいのか?勿論、それは曽野
綾子氏には商才はあっても文才がないのだから早く筆を折り
なさいの一言だ。
そして、もう一言。ネットの中に曽野氏の「揺れる大地に立って」
の見出しと目次のみを紹介したブログがあったので、転記させて頂
いたが、この「揺れる大地に立って」は大震災以後、曽野氏がコラ
ム等で書いたり述べてきたことを改めて加筆してまとめたものであ
ろう。しかし、見開き2ページのコラム等の氏の筆力では冊子にま
とめ上げる力はあるのだろうか。ここは夫三浦朱門氏の支援を仰ぎ、
三浦朱門氏の加筆、添削または一部の代筆を依頼したと考えるのが
順当であろう。いや、むしろ夫婦である以上、夫三浦朱門氏が見か
ねて曽野綾子氏の文章に手を加えたとも考えられる。ともあれ三浦
朱門代筆説は2chの文学板の中で実しやかに語られていて実は信憑
性がある。最初はどうせデマだろうとさして気にも留めていなかっ
たが、ネットを見渡しているうちに、曽野綾子氏のコラムか冊子の一
部を紹介した記述に出会って考えを改めた。題名等は忘れてしまっ
たが、読んでいておやっと思ったものだ。「なんだこういうふうに
も書けるではないか(失礼)」と、今までとは違った筆致にホッとした
記憶がある。つまり、その文章にはなにか香り立つものがあって、
言ってみれば「文体」を感じて心地よかった。だが、そのあまりの
落差にやがて2chの文学板のうわさが脳裏をよぎり、その疑惑は次
第に抜き差しならないものになって確信にまでなった。
ま、買って読んでみないと分らないことではあるが、今までの震災
関連の曽野綾子氏のコラムの劣悪さからいって購入する気力はない。
帯の小見出しの紹介や目次の内容で氏の言わんとするところは容易
に判断できるので、それで批判しても差し支えあるまい。
さていよいよ本題に入りたい。まず小見出しから。
●戦争体験者から見た震災
●過酷な運命の変化に備えるということ
●安全を妨げる「絶対安全」という暴論
●この災害に責任はない、と言い切れる人はいない
●最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞
これに反応した曽野綾子氏の2chの文学板のレスはこうだ。
○>戦争体験者
っておいおい、お前が餓死寸前でマラリア罹りながら小銃担いで南
方戦線でも戦って来たんか。あぁん? 疎開してただけだろーがよ。
なんちゅう厚かましいババァだ。お前はただのババァ。なんでそう
特権意識をもつのかねぇというか今までさんざん日本人に対してや
れ被災者は甘えているだの 若者はダメだの批判してきたのにいき
なり信頼に足るって持ち上げてる。
○自分が批判されたんでそれをかわすために大衆にゴマすっておこ
うという魂胆。あるいは曽野綾子の妄想の中には分裂した複数の日
本国民がいて、自分の都合の良い時につごうのよいタイプの日本国
民だけをとりあげて論じている。
○この災害に責任はない、と言い切れる人はいない 。
↑ 何だこの言い草は! そんなことを書き切っていいのかよ?
福島県で生まれて育った未成年者もフクシマ原発事故の責任がある
のか?津波の災害地で生まれて小中学校に通っている子も責任ある
のか?そこで死んでしまった若い命は、天罰だったのか?開いた口
が塞がらない暴論の展開だな。
曽野綾子氏の文学板で告発する人たちは当方と同じく小見出しや
目次を読んだだけで怒り心頭に発したと言うことだろう。むべなる
かなだ。大震災以前からの被災者に対する曽野綾子氏の心無い発言
は多くの人を傷つけ、読む者の心を痛めつけてきた。だから氏の冊
子を買って読むなど到底考えられないし、よしんば買って読んだと
ころで夫三浦朱門氏の加筆、添削がなければ無残な文章だろうし噴
飯ものだろう。お金をどぶに捨てるようなものだ。
ともあれ先ず小見出しのトップ「戦争体験者から見た震災」。これは
編集者が付けたものであろうが、曽野氏が了承している以上、氏が
書いたに等しいが、編集者も曽野綾子氏も言葉の使い方が解らな
いようだ。つまり言葉の意味が解っていない。曽野氏は終戦時
12~13歳で戦時中は疎開していたようだが、ご自身を「戦争体験者」
と言うとそれを聞いたり読んだ者は皆、抱腹絶倒の末、罵倒するだ
ろう。「戦争体験者」ではなく「戦災経験者」と言うべきで、初っ端から
曽野綾子らしさの開陳だ。これほど言葉を理解していない「作家」
もいないのではないか。だから以下の大言壮語が空疎に聞こえて
しまう。次もその一つ「過酷な運命の変化に備えるということ」は戦争
を体験して過酷な運命に晒されてきた私の話を聞きなさい、この体
験があるから「甘えずに生きてきた」と言いたいのだろうが、子供
ながらに過酷だったことは確かだろう。がしかし、現在、大人にな
った者が「戦争体験者」として「過酷な運命」と言う場合は「お前が
餓死寸前でマラリア罹りながら小銃担いで南方戦線でも戦って来た」
の言葉通りであれば「過酷な運命」と言えるし、学徒動員で「ひめ
ゆり隊」で沖縄戦を生き延びた人が言えば正に「過酷な運命」だ。
学童疎開から戻ってきて不自由な暮らしをしたくらいで自らの体験
を「過酷な運命」と表現するのは「作家」としては下の下だ。この御
仁は自分のことになるとなんでも大げさに考えるタイプのようで、
サハラ横断行で「原始を体験した」の大言壮語もそのひとつ。
先のブログでも述べたようにサバイバルではなかったはずで水も
食料もすべて用意して、スタッフと一緒に「旅行」した程度を「原始
を体験した」なんて大真面目に言えば言うほど失笑を買うというこ
とをご存じないようだ。これこそお嬢様育ちの証明以外にない。重
ねて言うが「原始を体験する」というのはそんな甘っちょろいことで
はない。現代風に言うとサバイバルなのだ。許されるならサバイバ
ルナイフ一丁腰に下げて一人で原野に入り、火は石や木で起こし蛇
や鼠を捕まえて食料にして二週間以上、原野で生活して戻って来た
ら、それは「原始を体験した」と言えるかもしれない。
お分かりかな、お嬢様。
次の「安全を妨げる『絶対安全』という暴論」。老人の繰言というか
懲りずに又もや持ち出してくるあたりはレスの告発とおり「ただ、この
人はいくら批判しても、一種の無誤主義みたいな精神状態だから自
分を批判するものがたとえ一億人に及ぼうと自分はただしいと考え
るんだろうな。批判されればされるほど、殉教者のような恍惚を覚え
たりして」
「齢を取ると小説的な文章を書くのが億劫になる。というかもう書けな
くなる。しかし世間一般の話をどうのこうのは死ぬまで言える。ただそ
れは自分の世界観・人間観で語るわけで、その世界観が薄っぺらで
人間観には頷けないと思う人たちには聞くに耐えないものだ、となる。
それでも語る。聞くに耐えないという人たちはバカな人たちだから、と」
ほとほと感心する。内容は去る5月27日付けの産経新聞の「安心病の
特効薬は」と題したコラムの中で曽野氏が記述したものの焼き直し程度
で、さして変わりはないだろう。
「国民の方は昔から原発を『絶対に安全なのか』という言い方で追いつ
めてきた。『いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想
定して避難訓練もいたします』と原発側が言ったとすると『事故がおき
る想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対
に安全です』という子供じみた応答になる。しかし物事に『絶対安全』
ということはないのである。今後いかなるエネルギー政策をやろうと、
絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。
もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ。」
先の当ブログ「東日本大震災 曽野綾子氏が原発推進派の意見を代
弁」で批判しているが、原発や原発反対運動について、なにひとつ
学習もせずに自分勝手な論理を作り、作り話のような稚拙な表現
は、これこそ「暴論」以外の何ものでもない。しかも、これはもう白
痴の領域だ。これほど自らの馬鹿さ加減や低レベルをさらけ出し
ても羞恥心もないというのには驚く。わが国の「文化功労者」なん
だから、これ以上、恥を曝すのは辞めて欲しい。
そして「この災害に責任はない、と言い切れる人はいない」いますよ!
曽野さん!あなたご自身でしょう。ご自身がこの間、「東電に責任は
ない」と言い切ったばかりではありませんか。舌の根も乾かないうちに、
何を仰る二枚舌。
「WiLL」6月号「昇一先生の美女対談」『不幸からの贈り物が日本人を
鍛える』(渡部昇一&曽野綾子)抜粋曽野 「こんなにひどい津波 は見た
ことがない、・・・・そもそもの想定が甘かったなら、責任は東電 ではなく
設計側にあります。」Willの対談で記録を残しておいて、どういうつもりか。
こうして首尾一貫しないのは次も同じ。
「最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞」この言葉こそ欺瞞そ
のものではないか。だからレスの怒りは留まるところを知らない。
「自分が批判されたんでそれをかわすために大衆にゴマすっておこ
うという魂胆。」こうなってしまう。
ところが、振り返ると大震災以前からの曾野綾子氏の弱者に対する無
慈悲なまでの辛辣な発言は以下のように首尾一貫している。
平成16年の台風23号の大型台風被害について「学校その他に避難し
た人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。一晩のこ
とに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわからない。避難した
ら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。それ
がいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの
個人の才覚の訓練が要る。お弁当なども行政は配る必要はない。天気
予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けない老
人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世
界の当然だ。」
新潟県中越地震についても、「避難所で救援物資を当てにして待ってい
る避難者は甘え過ぎだ。避難する時に寝具を担いで逃げるのは当たり
前。自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。
必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」
そして東日本大震災後の読売新聞の識者インタビューでは
「私たち日本人は・・・有頂天になっていた。今回の東日本大震災によっ
て甘やかされた生活がこれからも続くという夢が打ち砕かれた」
なのにどうして「最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞」
どうしてこの人はこうも平然と180℃の転換をやってしまうのか?
いつも為政者のような発言で「同胞」意識は微塵もないはずなのに急に
どうしたのですか?どうも打算があるとしか思えないが、この著書を売
らんが為に、そして「文化勲章」を貰いたいが為に「信頼に足る上質な
1億人の同胞」と姑息なまでの言辞を弄しているのではないか。このよ
うに首尾一貫しないのはなぜか?「世界観、人生観が薄っぺら」と
いうレスがあったが、そう思わざるを得ない。ではどういう世界観をお
持ちなのだろう?曽野綾子氏は「私はあまりにも多くを聖書から学び
ました」と仰るから「敬虔」なクリスチャンと思われる。であればキリスト
教的世界観をお持ちのはず。キリスト教的世界観と言うのは「文化功
労者」が政治に口出しするような無節操さも厭わず、おまけに調査や
検証もせずに頓珍漢で支離滅裂な発言を許す世界観なのだろうか。そ
もそも世界観というのは統一した見地に立って世界や世間、周りを観
る観方や考え方のことではないのか?ところが自己矛盾も平気でやっ
てのける曽野綾子氏に「統一した見地や考え方」があるとは思えない。
氏に「統一した見地」があるとすれば被災者に対する無慈悲な言辞
のみだ。ついでに言わせて頂くが「私はあまりにも多くを聖書から学
びました」なのに、なぜ文章はそのように理解不能な文章をお書きに
なるのですか?門前の小僧習わぬ経を読むの諺通りであれば文章も文
達であっていいはずだけど「近年落ち込んでいると言われる日本の
凋落」などと文章にならない文章を書く「文化功労者」はあなたくらい
でしょう。
今や日本の凋落を象徴しているかのような
欺瞞に満ちた「文化功労者」曽野綾子氏よ!
恥を知るが良い。・・・と言うことです。
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東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災 曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
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東日本大震災と曽野綾子さんについては、もう終わるのか
なと思いきや次をもう書くのですって・・・。
又もや削除の洗礼を受けているようだ。曾野綾子氏の近著のタイ
トルを当ブログのタイトルに入れてWEBで上位表示されてきた途端、
そのタイトルの当ブログが突然、当該キーワードの30ページ以内
にも見当たらなくなった。よほど神経を尖らせているようだ。なら
ばタイトルから曾野綾子氏の近著のタイトルを冠しなければどうだ
ろう。このように普遍的なキーワードを使ったタイトルだったら削
除できるだろうか。いや、それでも表示されないところを
見ると数値規制をポータルサイトに依頼したようだ。最近、上位に
当ブログおよび当ブログを2記事リンクさせたものが5箇所表示され
そのうち「『揺れる大地に立って』の欺瞞」がもろに見えるものが
2カ所。曽野氏もよほど癪に障ったのだろう。
曽野綾子氏の近著「揺れる大地に立って」は出版社、書店業界挙
げての宣伝合戦の様相を呈している。先の「老いの才覚」が100万
部を突破したためか、ネットを見る限り柳の下を狙う業者たちの蠢
きはすざましいかぎりだ。あまりの騒がしさに売れ筋ランキングを
覗いてみたが上位300冊の中に、その形跡はない。従って早稲田
大学教授・吉村作治氏の書評をもってテコ入れを図らざるを得ない
のだろう。またそれは別の狙いもあるようだ。つまり著名な吉村氏
に書評を依頼することでネットで目障りな当方のような雑魚どもを
蹴散らしたいのだろうが、そう容易く撃退されはしない。なぜかと
言えば、親しい人に書評を依頼しても、親しいだけに褒めちぎっ
たうえに当たり障りのないことしか書けなければ書評というより、
それはむしろ推薦文に過ぎない。それでは読者を納得させられ
ないし、吉村氏は読者の期待を裏切ることになり、引いては考古学
者としての自らの名声に傷をつけることになるだろう。
しかし、「老いの才覚」がヒットしたのはなぜか?それは曽野綾
子氏の文才ではなく氏もおそらく気づかないであろう氏の持って生
まれた商才がなさしめるものではないか。老人としての経験と時節
を捕らえて、すかさず「老いの才覚」と題したものを書き下ろした
才能は商機を逃さない類まれな商才と言うほかない。これは言って
みれば「父親譲り」である。父親とはもちろん笹川良一氏。商才と
いうことから考えると「笹川良一父親説」は俄かに信憑性を帯びて
くるからだ。笹川良一父親説が本当なら曽野綾子氏は道を間違えた
ことになる。文壇に入らず商売の道に入っていたら、うつ病になる
こともなく父親笹川良一氏譲りの商才を発揮して財界に君臨したか
もしれない。褒めちぎって何を言いたいのか?勿論、それは曽野
綾子氏には商才はあっても文才がないのだから早く筆を折り
なさいの一言だ。
そして、もう一言。ネットの中に曽野氏の「揺れる大地に立って」
の見出しと目次のみを紹介したブログがあったので、転記させて頂
いたが、この「揺れる大地に立って」は大震災以後、曽野氏がコラ
ム等で書いたり述べてきたことを改めて加筆してまとめたものであ
ろう。しかし、見開き2ページのコラム等の氏の筆力では冊子にま
とめ上げる力はあるのだろうか。ここは夫三浦朱門氏の支援を仰ぎ、
三浦朱門氏の加筆、添削または一部の代筆を依頼したと考えるのが
順当であろう。いや、むしろ夫婦である以上、夫三浦朱門氏が見か
ねて曽野綾子氏の文章に手を加えたとも考えられる。ともあれ三浦
朱門代筆説は2chの文学板の中で実しやかに語られていて実は信憑
性がある。最初はどうせデマだろうとさして気にも留めていなかっ
たが、ネットを見渡しているうちに、曽野綾子氏のコラムか冊子の一
部を紹介した記述に出会って考えを改めた。題名等は忘れてしまっ
たが、読んでいておやっと思ったものだ。「なんだこういうふうに
も書けるではないか(失礼)」と、今までとは違った筆致にホッとした
記憶がある。つまり、その文章にはなにか香り立つものがあって、
言ってみれば「文体」を感じて心地よかった。だが、そのあまりの
落差にやがて2chの文学板のうわさが脳裏をよぎり、その疑惑は次
第に抜き差しならないものになって確信にまでなった。
ま、買って読んでみないと分らないことではあるが、今までの震災
関連の曽野綾子氏のコラムの劣悪さからいって購入する気力はない。
帯の小見出しの紹介や目次の内容で氏の言わんとするところは容易
に判断できるので、それで批判しても差し支えあるまい。
さていよいよ本題に入りたい。まず小見出しから。
●戦争体験者から見た震災
●過酷な運命の変化に備えるということ
●安全を妨げる「絶対安全」という暴論
●この災害に責任はない、と言い切れる人はいない
●最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞
これに反応した曽野綾子氏の2chの文学板のレスはこうだ。
○>戦争体験者
っておいおい、お前が餓死寸前でマラリア罹りながら小銃担いで南
方戦線でも戦って来たんか。あぁん? 疎開してただけだろーがよ。
なんちゅう厚かましいババァだ。お前はただのババァ。なんでそう
特権意識をもつのかねぇというか今までさんざん日本人に対してや
れ被災者は甘えているだの 若者はダメだの批判してきたのにいき
なり信頼に足るって持ち上げてる。
○自分が批判されたんでそれをかわすために大衆にゴマすっておこ
うという魂胆。あるいは曽野綾子の妄想の中には分裂した複数の日
本国民がいて、自分の都合の良い時につごうのよいタイプの日本国
民だけをとりあげて論じている。
○この災害に責任はない、と言い切れる人はいない 。
↑ 何だこの言い草は! そんなことを書き切っていいのかよ?
福島県で生まれて育った未成年者もフクシマ原発事故の責任がある
のか?津波の災害地で生まれて小中学校に通っている子も責任ある
のか?そこで死んでしまった若い命は、天罰だったのか?開いた口
が塞がらない暴論の展開だな。
曽野綾子氏の文学板で告発する人たちは当方と同じく小見出しや
目次を読んだだけで怒り心頭に発したと言うことだろう。むべなる
かなだ。大震災以前からの被災者に対する曽野綾子氏の心無い発言
は多くの人を傷つけ、読む者の心を痛めつけてきた。だから氏の冊
子を買って読むなど到底考えられないし、よしんば買って読んだと
ころで夫三浦朱門氏の加筆、添削がなければ無残な文章だろうし噴
飯ものだろう。お金をどぶに捨てるようなものだ。
ともあれ先ず小見出しのトップ「戦争体験者から見た震災」。これは
編集者が付けたものであろうが、曽野氏が了承している以上、氏が
書いたに等しいが、編集者も曽野綾子氏も言葉の使い方が解らな
いようだ。つまり言葉の意味が解っていない。曽野氏は終戦時
12~13歳で戦時中は疎開していたようだが、ご自身を「戦争体験者」
と言うとそれを聞いたり読んだ者は皆、抱腹絶倒の末、罵倒するだ
ろう。「戦争体験者」ではなく「戦災経験者」と言うべきで、初っ端から
曽野綾子らしさの開陳だ。これほど言葉を理解していない「作家」
もいないのではないか。だから以下の大言壮語が空疎に聞こえて
しまう。次もその一つ「過酷な運命の変化に備えるということ」は戦争
を体験して過酷な運命に晒されてきた私の話を聞きなさい、この体
験があるから「甘えずに生きてきた」と言いたいのだろうが、子供
ながらに過酷だったことは確かだろう。がしかし、現在、大人にな
った者が「戦争体験者」として「過酷な運命」と言う場合は「お前が
餓死寸前でマラリア罹りながら小銃担いで南方戦線でも戦って来た」
の言葉通りであれば「過酷な運命」と言えるし、学徒動員で「ひめ
ゆり隊」で沖縄戦を生き延びた人が言えば正に「過酷な運命」だ。
学童疎開から戻ってきて不自由な暮らしをしたくらいで自らの体験
を「過酷な運命」と表現するのは「作家」としては下の下だ。この御
仁は自分のことになるとなんでも大げさに考えるタイプのようで、
サハラ横断行で「原始を体験した」の大言壮語もそのひとつ。
先のブログでも述べたようにサバイバルではなかったはずで水も
食料もすべて用意して、スタッフと一緒に「旅行」した程度を「原始
を体験した」なんて大真面目に言えば言うほど失笑を買うというこ
とをご存じないようだ。これこそお嬢様育ちの証明以外にない。重
ねて言うが「原始を体験する」というのはそんな甘っちょろいことで
はない。現代風に言うとサバイバルなのだ。許されるならサバイバ
ルナイフ一丁腰に下げて一人で原野に入り、火は石や木で起こし蛇
や鼠を捕まえて食料にして二週間以上、原野で生活して戻って来た
ら、それは「原始を体験した」と言えるかもしれない。
お分かりかな、お嬢様。
次の「安全を妨げる『絶対安全』という暴論」。老人の繰言というか
懲りずに又もや持ち出してくるあたりはレスの告発とおり「ただ、この
人はいくら批判しても、一種の無誤主義みたいな精神状態だから自
分を批判するものがたとえ一億人に及ぼうと自分はただしいと考え
るんだろうな。批判されればされるほど、殉教者のような恍惚を覚え
たりして」
「齢を取ると小説的な文章を書くのが億劫になる。というかもう書けな
くなる。しかし世間一般の話をどうのこうのは死ぬまで言える。ただそ
れは自分の世界観・人間観で語るわけで、その世界観が薄っぺらで
人間観には頷けないと思う人たちには聞くに耐えないものだ、となる。
それでも語る。聞くに耐えないという人たちはバカな人たちだから、と」
ほとほと感心する。内容は去る5月27日付けの産経新聞の「安心病の
特効薬は」と題したコラムの中で曽野氏が記述したものの焼き直し程度
で、さして変わりはないだろう。
「国民の方は昔から原発を『絶対に安全なのか』という言い方で追いつ
めてきた。『いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想
定して避難訓練もいたします』と原発側が言ったとすると『事故がおき
る想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対
に安全です』という子供じみた応答になる。しかし物事に『絶対安全』
ということはないのである。今後いかなるエネルギー政策をやろうと、
絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。
もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ。」
先の当ブログ「東日本大震災 曽野綾子氏が原発推進派の意見を代
弁」で批判しているが、原発や原発反対運動について、なにひとつ
学習もせずに自分勝手な論理を作り、作り話のような稚拙な表現
は、これこそ「暴論」以外の何ものでもない。しかも、これはもう白
痴の領域だ。これほど自らの馬鹿さ加減や低レベルをさらけ出し
ても羞恥心もないというのには驚く。わが国の「文化功労者」なん
だから、これ以上、恥を曝すのは辞めて欲しい。
そして「この災害に責任はない、と言い切れる人はいない」いますよ!
曽野さん!あなたご自身でしょう。ご自身がこの間、「東電に責任は
ない」と言い切ったばかりではありませんか。舌の根も乾かないうちに、
何を仰る二枚舌。
「WiLL」6月号「昇一先生の美女対談」『不幸からの贈り物が日本人を
鍛える』(渡部昇一&曽野綾子)抜粋曽野 「こんなにひどい津波 は見た
ことがない、・・・・そもそもの想定が甘かったなら、責任は東電 ではなく
設計側にあります。」Willの対談で記録を残しておいて、どういうつもりか。
こうして首尾一貫しないのは次も同じ。
「最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞」この言葉こそ欺瞞そ
のものではないか。だからレスの怒りは留まるところを知らない。
「自分が批判されたんでそれをかわすために大衆にゴマすっておこ
うという魂胆。」こうなってしまう。
ところが、振り返ると大震災以前からの曾野綾子氏の弱者に対する無
慈悲なまでの辛辣な発言は以下のように首尾一貫している。
平成16年の台風23号の大型台風被害について「学校その他に避難し
た人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。一晩のこ
とに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわからない。避難した
ら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。それ
がいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの
個人の才覚の訓練が要る。お弁当なども行政は配る必要はない。天気
予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けない老
人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世
界の当然だ。」
新潟県中越地震についても、「避難所で救援物資を当てにして待ってい
る避難者は甘え過ぎだ。避難する時に寝具を担いで逃げるのは当たり
前。自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。
必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」
そして東日本大震災後の読売新聞の識者インタビューでは
「私たち日本人は・・・有頂天になっていた。今回の東日本大震災によっ
て甘やかされた生活がこれからも続くという夢が打ち砕かれた」
なのにどうして「最大の幸福は信頼に足る上質な1億人の同胞」
どうしてこの人はこうも平然と180℃の転換をやってしまうのか?
いつも為政者のような発言で「同胞」意識は微塵もないはずなのに急に
どうしたのですか?どうも打算があるとしか思えないが、この著書を売
らんが為に、そして「文化勲章」を貰いたいが為に「信頼に足る上質な
1億人の同胞」と姑息なまでの言辞を弄しているのではないか。このよ
うに首尾一貫しないのはなぜか?「世界観、人生観が薄っぺら」と
いうレスがあったが、そう思わざるを得ない。ではどういう世界観をお
持ちなのだろう?曽野綾子氏は「私はあまりにも多くを聖書から学び
ました」と仰るから「敬虔」なクリスチャンと思われる。であればキリスト
教的世界観をお持ちのはず。キリスト教的世界観と言うのは「文化功
労者」が政治に口出しするような無節操さも厭わず、おまけに調査や
検証もせずに頓珍漢で支離滅裂な発言を許す世界観なのだろうか。そ
もそも世界観というのは統一した見地に立って世界や世間、周りを観
る観方や考え方のことではないのか?ところが自己矛盾も平気でやっ
てのける曽野綾子氏に「統一した見地や考え方」があるとは思えない。
氏に「統一した見地」があるとすれば被災者に対する無慈悲な言辞
のみだ。ついでに言わせて頂くが「私はあまりにも多くを聖書から学
びました」なのに、なぜ文章はそのように理解不能な文章をお書きに
なるのですか?門前の小僧習わぬ経を読むの諺通りであれば文章も文
達であっていいはずだけど「近年落ち込んでいると言われる日本の
凋落」などと文章にならない文章を書く「文化功労者」はあなたくらい
でしょう。
今や日本の凋落を象徴しているかのような
欺瞞に満ちた「文化功労者」曽野綾子氏よ!
恥を知るが良い。・・・と言うことです。
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