<合格者が語る「私の働き方改革」>月謝制看護予備校個別No.1西宮尼崎芦屋宝塚伊丹JR阪急

2023年05月23日 | これでっせー!
◎個別No.1で勉強され、

優秀な成績で某難関看護専門学校に

合格された方が、

ご自身の仕事人生について語って下さいました!



ありがとうございます!!






長文ですが、これからのあなたの人生にとって

糧となることばかりですので

最後までお読み下さい!!!









「塾長に私の今まで働いてきた

職場でのことなどを話していたら、

思っていた以上の反応(塾長注:もらい泣き

だったので私の今までのことを書いてみることにしました。






私は18歳で栄養士の専門学校に入学し、

20歳から社会人として働きました。

初めて入社した会社は40年以上つづく大手の給食会社でした。




給食会社では、各学校や施設、病院等に

委託として社員を割り振って仕事をしていくのですが

兵庫県T市に住んでいる私が行くことになった

勤務先が、大阪市南部にある大学病院でした。




しかもその勤務先も東京での入社式で発表され、

もう変更は出来ない状態でした。





家から最寄りの駅まで徒歩で30分はかかるので、

通勤時間は片道だけで2時間に及びましたが、

初めて社会人になっての仕事だったので

「社会に出たらこんなのが当たり前なのか」と思いました。







4月に入り勤務先へと出向きましたが、

初日から驚きました。

その勤務先はその年の3月から委託

することになった病院だったらしく、

上司達ですらその勤務先での仕事は

初心者同然で回転率や時間配分も探り探りでした。






勿論そんな環境で新入社員

(栄養士1名、管理栄養士1名、調理師3名)が

入ってすぐに戦力になるはずもなく、

指導する先輩や上司ですらも

何をどう教えればいいかの状態でした。









私が上司に命令されたのは

調乳という赤ちゃんに提供する

 ミルクの管理
でした。(産婦人科があった為)







そこの担当である管理栄養士の先輩が

現場に出てこられるように1ヶ月で

調乳の仕事を覚えて欲しい

という命令だったので、

私は1ヶ月間先輩やパートの方々に

教えて貰いながら頑張って覚えていきました。








ですが、5月から急に、「やっぱり現場に

 出て欲しい
」と言われ、現場に放り込まれました。






調乳の仕事を覚えて独り立ち

して欲しいと言われていたのに

いきなり現場に放り出されて私は困惑しました。





そこでは同期がテキパキと

仕事をしていましたが、私が1ヶ月間調乳の

仕事しかしておらず、現場にあまり

でていなかったので何をどうすれば

いいのかわからない状態でした。






その時、私が1ヶ月間覚えてきた

ことはなんだったんだと思いました。






そしてその次の日から

私はアレルギー食担当になりました。


初めの1週間は先輩がついてくれましたが、

人手が不足していたので

すぐに1人で仕事をすることになりました。




ベッド数100床くらいの病院ならまだしも

ベッド数1000床の病院だったので、

1食のアレルギー食が最大で

 50人
に達することもありました。




その一人一人の食事を私が一人で

管理しなくてはならなかったのです。

1つでも間違えたら患者の死につながる



アレルギーだけでなく塩分、脂質、

水分やとろみ食か一口大かの形状までもを

現場を駆け回りながら一人分ずつ皿に盛り付け、

アレルギー食用のカートに入れていくシステムでした。





時間との戦い、そして間違えれば

死につながるというプレッシャーでの戦いでした。






最後の確認として管理栄養士が最終確認を

してくれますが、最終確認があるからと

言って間違いがあってはならない仕事なので

社会に出て1年目の私にとっては

日に日に精神がすり減る気持ちでした。






しかもその仕事が昼食、夕食と

2回分毎日あるので気が抜けなかったです。

勿論毎日メニューが変わるので、

アレルギーのある患者も変わってきます。

なので毎回同じものを用意すればいい

ということは絶対ないです。







まだ他の担当の仕事と交代での勤務なら

少しは楽だったのかも知れませんが、

ここの職場では○○さんは○○担当と

いうふうに割り当てられてしまっていて

その人が休むと誰もその人の

代わりができないという状態でした。




そのため体調不良になろうが

休むことができず、それから2ヶ月くらい

すぎたある日から私は食べ物を

食べることができなくなりました。





所謂拒食症です。






食べなきゃならないと思っていても

身体が受け付けようとしませんでした。



そうして体力が落ちていって

身体が限界でも休むことは出来ず、

毎日4時に起きて5時半に家を出て

 出勤
していました。

(定時は18時でしたが残業があるのが

基本だったので、家に着くのは毎回22時前後)






それからの記憶は本当に曖昧ですが、

ふと駅のホームで電車を待っていると

「自分はなんの為に働いているのか」

と思うようになり、<今飛び込めば楽になる

と思いながらじっと線路を見ていた

ことだけは覚えています。






線路に飛び込んだら死ぬという考え

よりも、この現実から直ぐに楽になれる方法という考えでした。



その頃の私には仕事を辞めるという

選択肢を考えることが出来なかったです。



友人に言われて気づくことが出来ましたが。

最初は上司に、辞めることは許さない、

 ここで辞めるなら他の仕事でも通用しない

と言われ反対されましたが、

このままでは自分がもたないと思い

ほぼ無理やり退職しました。

(どうやって退職にこぎつけたかは覚えてないです)




全部が全部というわけではありませんが、

私が務めていた給食会社の給料の手取りは

交通費を含めて10万ちょっとでした




交通費を除けば10万をきります。

初任給はこんなもんなのかな

と思ってましたが、働いていくにつれて

この給料でこの仕事量は割に合わない

と思うようになりました。





そしてもっと信じられないと思ったのが、

この職場では早出が4時からなのですが

(患者たちの朝食があるため)その早出に

 出勤するために「一人暮らしをして欲しい」

と言われたことです。






近くに会社の寮があるとか

家賃手当があるなら考えましたが、

そんなものはありませんでした。



手取り10万前後でどう暮らしていけというのか

と思い、そのことが退職しようと

決意したきっかけかも知れません。




結局この職場は半年しか続きませんでした。

辞めて後悔はしていませんが…。







それからは栄養士として保育園などで働きました。

保育園や幼稚園は栄養士が1人か2人が基本で

ほかの社員はパートか調理師なので

ほぼ1人で食品発注、献立作成、アレルギー管理、

調理、盛り付けが基本だったので

お昼休憩というものはありませんでした。

給料からはちゃっかり引かれていましたが。




ほとんどの保育園や幼稚園ではそれが普通なのかもしれません。

それか私が就職したところが

たまたまそういう所が多かったってだけかもしれませんが…。

ただその分子どもたちとふれあえるのでやりがいは感じました。







それから看護師を目指そうと思い、

栄養士を辞めて看護助手として9ヶ月働き今に至ります。






栄養士の仕事はやりがいもありますし嫌いではありません。

ですが、栄養士という仕事は生活習慣病や

高齢化社会により健康維持を目的とした

栄養指導の必要性がうたわれるようになり

栄養士の役割の重要性が再認識され、

最近注目されるようになった仕事だと思います。


実際ほんの40年まえくらいに

栄養士免許制度の廃止が提言されたらしいです。






しかし、保育士や介護士と同じように

免許があっても給料が低ければ

その職を目指す人、働く人が

 減っていく一方
なのではと思いました。




今までの私の職歴を書かせていただきましたが、

栄養士免許を持ったこと、栄養士として

働いたことは私にとってとてもいい経験になりました。




栄養士免許を持てたことを誇りにも思っています。





そのおかげで沢山のことを学べました。







上記の内容はあくまでも個人的な意見なのでご了承ください。」















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