「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

東海の三神山とは日本海から見た大山・烏ヶ山・蒜山のことである

2018-05-24 07:00:33 | 天照大神(徐福)
 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった」とする。
 上陸した宇記島・原は鳥取県北栄町の島集落と原集落であった。どちらも、紀元前210年では海面が海抜4mであり、波打ち際であった。また葦原中津国を構成しており、天然の良港であった。徐福達は葦原中津国に到着し、蒜山(瀛州山)に上がった。蒜山高原(瀛州)は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。「富士山麓が高天原である」と改ざんしたのは、藤原氏である。
 
 宮下文書にある小さな入り江(葦原中津国の入口)より見た蒜山(瀛州山)。
 日本海の海上に出ても、同じように見える。右から上蒜山、中蒜山、下蒜山である。
 標高は1200m代でありその向こうが蒜山高原(瀛州)になっており、標高は400~500mである。
 徐福はここに上陸した。東海とは朝鮮半島の人は日本海をそう呼んでいたのであり、瀛州山とは蒜山のことであった。
 左側が普通の中国山脈である。蒜山(瀛州山)がいかに目立つか判る。
 大山(蓬莱山)は標高1700m代でありもう一つ抜きんでて大きいが、蒜山(瀛州山)も普通の中国山脈に比べると抜きんでて大きい。古代は大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)を目印にして、大陸(新羅)から渡ってきたものと思われる。この奥に宮下文書に書いてある宇記島(島集落)と原(原集落)がある。島の宮崎神社の由緒には「倭建命がここは浮島かと言われた」という記載がある。
 


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