1 出雲神族の富氏の口伝によると「ホヒ(天穂日)は出雲神族(準王一族)と婚姻関係を結んで、後続部隊の手引きをした。出雲神族(準王一族)の反乱を防ぐため、神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とある。
出雲には「出雲族(準王一族)の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。これが倭国大乱の原因と思われる。
出雲には「出雲族(準王一族)の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。これが倭国大乱の原因と思われる。
2 孝霊山の伝承
鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている。
第7代孝霊天皇(私見では120年生~211年没)の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都(鳥取県中部)まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。
朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国(妻木)では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている。
第7代孝霊天皇(私見では120年生~211年没)の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都(鳥取県中部)まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。
朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国(妻木)では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
※ 私見
2世紀後半では、妻木とは妻木晩田遺跡の地であり、孝霊天皇と朝妻姫の宮殿は長田集落の上(山側)にあったはずである。
宮殿の比定地は東海(日本海)に臨み、見晴らしがよく、国見が出来きる。孝霊山周辺では、天皇が住む宮殿の立地条件としてベストである。長田集落の隣は妻木晩田遺跡である。
3 鳥取県大山町宮内の高杉神社
祭神 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命(朝妻媛と思われる)、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳(476年)近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻媛と思われる)に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。
祭神 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命(朝妻媛と思われる)、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳(476年)近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻媛と思われる)に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。
4 私見
(1) 祭神の中で大足彦忍代別命(景行天皇)だけが他のどの祭神とも関係がない。藤原氏は記紀を改ざんしているので、記紀との整合性を図るため、いつの時代か大足彦忍代別命(景行天皇)を挿入したと思われる。本来、倭建命は大足彦忍代別命(景行天皇)ではなく孝霊天皇の皇子であった。
(2) 祭神に本媛之命とあるが、これは細姫ではなく朝妻姫と思われる。孝霊山の頂(中腹)に孝霊天皇と朝妻姫のために宮殿を建てたのだから、その山の麓の孝霊天皇を祭る神社の本媛は朝妻姫しかいない。細姫は孝霊天皇が日南町の宮内に移ってからそこを訪れ福姫を生んだという由緒・伝承がある。
(3) 雄略天皇丙辰の歳(476年)に祟りあり、その後一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)を建造した。創立年代不詳とあるが、476年ころには創建されていた。藤原氏は伯耆国の神社の多くに創立年代不詳と書かせている。藤原氏が台頭する奈良時代(1300年前)以前から伯耆国に神社が創建されていたことを隠すためである。
(4) 出雲には「出雲族の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。出雲族の姫を孝霊天皇は殺していないが、孝霊天皇が出雲族の姫と接触する機会があったのは妻木晩田の朝妻姫たち(高杉神社由緒の朝妻姫之命、松媛之命、千代姫之命)とである。妻木晩田遺跡の発掘により、妻木晩田に住んでいたのは出雲族であった。四隅突出型墳丘墓(王墓とされる)が11基見つかっている。朝妻姫之命、松媛之命、千代姫之命の三人とも孝霊山の麓の妻木晩田出身であり、出雲族の王家の娘と思われる。松媛之命、千代姫之命は本媛之命に嫉妬していたので自殺したのかもしれない。「うわなり神事」は海岸まで行く。それを孝霊天皇が殺したと出雲族に伝わったと思われる。
(5) 妻木晩田遺跡より
(1) 祭神の中で大足彦忍代別命(景行天皇)だけが他のどの祭神とも関係がない。藤原氏は記紀を改ざんしているので、記紀との整合性を図るため、いつの時代か大足彦忍代別命(景行天皇)を挿入したと思われる。本来、倭建命は大足彦忍代別命(景行天皇)ではなく孝霊天皇の皇子であった。
(2) 祭神に本媛之命とあるが、これは細姫ではなく朝妻姫と思われる。孝霊山の頂(中腹)に孝霊天皇と朝妻姫のために宮殿を建てたのだから、その山の麓の孝霊天皇を祭る神社の本媛は朝妻姫しかいない。細姫は孝霊天皇が日南町の宮内に移ってからそこを訪れ福姫を生んだという由緒・伝承がある。
(3) 雄略天皇丙辰の歳(476年)に祟りあり、その後一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)を建造した。創立年代不詳とあるが、476年ころには創建されていた。藤原氏は伯耆国の神社の多くに創立年代不詳と書かせている。藤原氏が台頭する奈良時代(1300年前)以前から伯耆国に神社が創建されていたことを隠すためである。
(4) 出雲には「出雲族の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。出雲族の姫を孝霊天皇は殺していないが、孝霊天皇が出雲族の姫と接触する機会があったのは妻木晩田の朝妻姫たち(高杉神社由緒の朝妻姫之命、松媛之命、千代姫之命)とである。妻木晩田遺跡の発掘により、妻木晩田に住んでいたのは出雲族であった。四隅突出型墳丘墓(王墓とされる)が11基見つかっている。朝妻姫之命、松媛之命、千代姫之命の三人とも孝霊山の麓の妻木晩田出身であり、出雲族の王家の娘と思われる。松媛之命、千代姫之命は本媛之命に嫉妬していたので自殺したのかもしれない。「うわなり神事」は海岸まで行く。それを孝霊天皇が殺したと出雲族に伝わったと思われる。
(5) 妻木晩田遺跡より
この方角から見る孝霊山が一番きれいに見える。
案内板には「ここからは、妻木晩田遺跡の南側を眺望することができます。奥側に大きくそびえる三角形の山は孝霊山です。妻木晩田遺跡内からは大山が見えないため、妻木晩田の弥生人が日常的に仰ぎ見ていた山は孝霊山です」とある。
案内板には「ここからは、妻木晩田遺跡の南側を眺望することができます。奥側に大きくそびえる三角形の山は孝霊山です。妻木晩田遺跡内からは大山が見えないため、妻木晩田の弥生人が日常的に仰ぎ見ていた山は孝霊山です」とある。
妻木晩田遺跡は1世紀前半(紀元0年~50年)から人が住みはじめ、2世紀後半(150年~200年)をさかいに、妻木晩田のムラは少しづつ衰えていき、古墳時代初め頃には住まいがほとんど見られなくなる(妻木晩田遺跡公式ホームページより)。
(6) 孝霊山の伝承は、まだ倭国大乱になる前(158年以前)の平和な時代の伝承と思われる。その後、出雲族の姫を殺したとして、出雲神族(準王一族)は青谷上寺地遺跡、湯梨浜町宮内を攻撃したので、孝霊天皇一家は天之日矛族のいた但馬に疎開した(158年)。
孝霊天皇一家と天之日矛族は10年後(169年)、反撃を開始する。孝霊天皇自身は但馬から因幡、伯耆の日本海側ルートで反撃をした。大吉備津彦(崇神天皇)、若日子建吉備津彦(倭建命)、倭迹迹日百襲姫命(倭姫命)たちはまず瀬戸内海の島々から攻撃を開始して、吉備国の平定に向かった。鳥取県中部で孝霊天皇と合流し、孝元天皇を倉吉市小田の皇居に残し、妻木晩田・手間山・溝口町・日野町、日南町を経て、出雲に入った。出雲国が降参して孝霊天皇は孝元天皇に皇位を譲り、広島県府中市の南宮神社に住んだ。その後も、倭姫命と倭建命と皇軍(物部・天之日矛族)の征西・三韓征伐(173年)・東征・崇神天皇の即位(188年頃)と続き出雲族の母を持つ倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)は女王として共立された。