1 古事記
大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)は意富夜麻登玖邇阿礼比売命(倭国香媛)を娶って、夜麻登登母々曾毘売命(倭迹迹日百襲姫命)、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命=大吉備津日子命(彦五十狭芹彦命)、倭飛羽矢若屋比売(倭迹迹稚屋姫命)を生んだ。
また、阿礼比売命の妹・蠅伊呂杼(絚某弟)を娶って、日子寤間命(彦狭島命)、若日子建吉備津日子命(稚武彦命)を生んだ。
大倭根子日子國玖琉命(母は細姫のち孝元天皇)は、後に天下を治めた。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。
大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定し、大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖となった。
日子寤間命は針間(播磨)の牛鹿臣の祖。日子刺肩別命は高志(越)の利波臣、豊国の国前臣・五百原君・角鹿済直の祖、とある。
※ 私見 功績が認められ、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は天皇になったと思われる。
2 先代旧事本記
孝霊天皇
諱は大日本根子彦太瓊尊。孝安天皇の皇太子である。母は皇后・押媛命と申しあげる。
治世元年・癸未年の春正月、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后とされた。
二年二月、細媛命を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(孝元天皇)である。
妃の倭国香媛、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命、次に彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)、次に倭迹稚屋姫命である。
次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命、次に稚武彦命、次に弟稚武彦命である。
三年の春正月、宇摩志麻治命の子孫の、大水口命と大矢口命をともに宿祢とされた。
二十六年の春正月、彦国牽皇子を立てて、皇太子とされた。太子の年は十九歳。
七十六年の春二月、天皇は崩御された。次の天皇の治世四年に、片岡馬坂陵に葬った。
天皇は、五人の皇子をお生みになった。
大日本根子彦国牽尊。
彦五十狭芹彦命(吉備津彦命。吉備臣らの祖)。
次に、彦狭嶋命(海直らの祖)。
次に、稚武彦命(宇自可臣らの祖)。
次に、弟稚武彦命。
※ 私見 孝霊天皇の諱に「日本」が入っており藤原氏の改ざんが見て取れる。古事記は「倭」としており、古事記のほうが信用できるかもしれない。「天皇は、五人の皇子をお生みになった」に鴬王が含まれていない。原古事記には書いてあったはずである。
3 日南町の樂樂福神社(東西二社)の祭神
(1) 大日本根子彦太瓊尊 第七代孝霊天皇
天皇が当地を巡幸された折に鬼林山に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞召され御一族を従えて彼の邪鬼を見事に退治された日野郡開拓鎮護の総氏神。
(2) 若建吉備津彦命(稚武彦命) 孝霊天皇の皇子
兄皇子の大吉備津彦命と共に四道将軍として吉備の国を平定された知慮と武勇にすぐれた大神。
(3) 大吉備津彦命(彦五十狭芹彦命) 孝霊天皇の皇子で若建吉備津彦命の兄
(4) 絙某弟命 若建吉備津彦命の母
(5) 細媛命 皇后 孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。
(6) 福媛命 后妃 孝霊天皇の皇女とする説もあり。日南町印賀に鎮座の「樂樂福神社」は主祭神の皇女「媛姫命(ひめのみこと)を此の福媛と同一のお方として奉斎する。
(7) 彦狭嶋命 皇子 別名 歯黒皇子
此の皇子はお生まれになった当初から鐡(てつ)の如き黒々とした強い歯がすでに生え揃い、ご性分もすぐれておられたので、天皇巡幸の御時は必ず此の皇子を伴われた。此即ち彦狭嶋命を歯の大神と敬い奉る所以である。
4 奈良の孝霊神社(庵戸神社)
祭神 孝霊天皇、倭迹迹日百襲媛命、彦五十狭芹彦命、稚武彦命、ほか。
由緒
岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎の伝説地の多くは、古事記・日本書紀に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭芹彦命(大吉備津日子命)と稚武彦命(若日子建吉備津日子命)兄弟の活躍に由来するものである。
ウィキペディアは「庵戸宮は、桃太郎と卑弥呼ゆかりの地とされているが、伝説を鵜呑みに捉えた場合、桃太郎と卑弥呼は共に孝霊天皇の皇子皇女として兄妹であったということになり、それら兄妹の生誕の地としても伝えられている」とする。
5 私見
(1) 古事記・日本書紀は8代・9代・10代を父子承継とするがこれは正しいか。
13代倭国男王は武内宿禰であった。武内宿禰の父は屋主忍男武雄心命である。12代景行天皇の実在には疑問が出されており、12代倭国男王は屋主忍男武雄心命であった。屋主忍男武雄心命について正しいと思われる史料の「紀氏系図」では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする。
「紀(木)氏系図」では、8代孝元天皇と13代武内宿禰との間には二人いるだけである。7代・8代・9代・10代は倭国大乱の時代であり8代と9代は若死にしている。倭王朝は戦などで王が若死にした場合兄弟承継をしていた。8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇は兄弟だったのではないか。孝元天皇・開花天皇・崇神天皇は倭国大乱の時代の孝霊天皇の皇子であり兄弟承継をしていた。そう解することによって、11代垂仁天皇と彦太忍信命は「いとこ」、12代景行天皇と屋主忍男武雄心命は「またいとこ」になり年代的に一致する。
なぜ、孝霊天皇一族の兄弟承継(倭国大乱で8代・9代は若死にしている)を父子承継にしたのか。
唐は倭国と日本は別の国だと断定している(旧唐書倭国伝)。倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)は中国の信用を得るために、倭国と日本は連続しており、万世一系の皇統だとした。ある種の詐欺である。しかし中国の支配下に置かれるとやっと乗っ取った倭国を自分たちの思うままにすること(中国では許されない系譜や姓を奪って名乗ったり、荘園制度を創って搾取したり、古代史で重要な地域を被差別にしたり、斬首を始めたり)ができなくなるので、始祖の天照大神が徐福(中国人)だということは隠した。そのために神武元年(紀元前60年)を徐福(天照大神)が渡来した紀元前210年よりずっと古い紀元前660年にした。古く見せるために、倭国の原書にあった兄弟承継を日本の国史では父子承継にしなければならなかった。
(2) 8代・9代・10代は孝霊天皇の皇子であるが、誰であろうか。8代孝元天皇は問題ない。問題は9代と10代である。
細姫と大倭根子日子國玖琉と大吉備津日子と若日子建吉備津日子と日子刺肩別と日子寤間(彦狭島)は、鳥取県湯梨浜町宮内で生まれていて、孝霊天皇と一緒に但馬に疎開した。倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は最後に逃げた。魏志倭人伝に「卑弥呼宗女壹與」とあるので卑弥呼も王室の女(宋女)であることが推定される。卑弥呼は孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。細姫と長男の大倭根子日子国玖琉(孝元天皇)は11年後、疎開先の但馬から天神川の西の倉吉市小田集落に帰ってきて第8代孝元天皇として即位した。
景行天皇の皇子とされる倭建命と叔母とされる倭姫命の全国巡行(一緒にいたから女性の着物や草薙剣を借りることができた)は、孝霊天皇の皇子である桃太郎と姉の卑弥呼の全国巡行であった。倭建命と一緒に全国の平定に巡行した倭姫命は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった(別稿「内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった」を参照されたし)。倭建命は倭迹迹日百襲姫命と兄弟であり景行天皇の皇子ではなく孝霊天皇の皇子の若日子建吉備津日子であった。
大吉備津日子と若日子建吉備津日子は疎開していた但馬から出て吉備国を平定した。桃太郎は吉備団子を猿・雉・犬に与えて吉備の鬼を平定した。倭建命は吉備から倉吉市関金町に来て「この矢の止まる限りをわが守護の地とならん」と言った伝承が残っている。倭建命も吉備国を平定している。倭建命と倭姫命は全国の平定をしている。桃太郎と卑弥呼も全国の平定をしている(奈良の孝霊神社(庵戸神社)由緒より)。桃太郎のモデルは倭建命であった。倭建命は同じ「建」の文字の付く若日子建吉備津日子であった。
倭建命(若日子建吉備津日子)は東国平定に旅立つ前に第8代孝元天皇が倭国大乱で若死にしたので吉備国の平定の功により女王の倭姫命(魏志倭人伝に「倭の女王卑弥呼」とある)に草薙剣をもらい第9代開化天皇になった。第9代開化天皇も享年30で亡くなったので同じく吉備国平定で功のあった兄の大吉備津日子が次の天皇になった。第10代崇神天皇は大吉備津日子であった。
魏志倭人伝に「卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)には弟がいて国を治めるのを助けている(有男弟佐治國)」とある弟とは若日子建吉備津日子(開化天皇)と大吉備津日子(崇神天皇)の男王のことであった。
魏志倭人伝に「一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という」(乃共立一女子為王 名日卑弥呼)とある。倭国香媛(紐某姉ハエイロネ)と蠅伊呂杼(絚某弟ハエイロド)は事代主と百八十神が国譲りのあと移り住んだ波延(ハエ)の地(鳥取県湯梨浜町長和田)の出身である。倭国香媛(紐某姉)と蠅伊呂杼(絚某弟)は出雲族(準王一族)であった。倭国大乱の相手方(出雲族)も倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)の母が出雲族だったので共立した。
大吉備津日子命(崇神天皇)と若日子建吉備津日子命(開化天皇・倭建命・桃太郎)は孝霊天皇の異母兄弟皇子であり、鳥取県湯梨浜町長和田(ハエの地)の対岸の湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で生まれた。
(3) 「古事記」では、倭建命の曾孫(ひひこ)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)を生むとするなど矛盾があるので、景行天皇と倭建命は親子ではない。また、調べると、倭建命は景行14年生~ 景行43年薨(30歳)、仲哀天皇は成務19年生~ 仲哀9年崩(52歳)となり仲哀天皇は父とされる倭建命の崩御後36年目に生まれたことになり、仲哀天皇との親子関係にも疑問が生ずる。
景行・成務・仲哀は潤色されており、朝鮮半島の百済国の王であった。倭国王の倭建命の系譜を潤色された百済王の景行・成務・仲哀に取り込もうとしたがほころびが生じた。
大碓命・小碓命の話は武烈の話と同じく百済国での話であった。若日子建吉備津日子と大吉備津日子は生年が157年頃の異母兄弟であった。古事記では百済国での双子であった大碓命・小碓命の話を異母兄弟であった若日子建吉備津日子と大吉備津日子に入れ込んだ。後に若日子建吉備津日子(倭建命)は吉備国平定の功績が認められ開化天皇(東国では倭建天皇とする)に、同じく大吉備津日子も吉備国平定の功績が認められ崇神天皇になった。