「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倭国は、卑弥呼たちが弥生後期に全国と半島を平定するまで小国であり、鳥取県中部であった

2018-07-23 12:07:35 | 倭国大乱の原因
1 青谷上寺地遺跡発掘調査報告書4(2002年) 第5章 青谷上寺地遺跡をめぐる諸問題 第4節 殺傷痕のある人骨をめぐる諸問題 より

(1)弥生時代の戦い
 次に墓壙内出土の鏃について検討する。すでに述べたとおり、青谷上寺地では銅鏃およびその可能性のあるものが嵌入した人骨が4例あり、全国的にも鏃の嵌入例または墓壙内出土例が多いことから飛び道具としての鏃の検討は避けられない。表33に山陰を中心とする日本海沿岸地域における鏃の墓壙内出土例をまとめた。丹後の墳墓には鉄製武器や工具が副葬される場合が多く、鏃のみの場合もなくはないが、基本的に墓壙内の鏃は副葬品と思われる。但馬の東山墳墓群では5基の墓壙より鉄鏃(1点・1点)・銅鏃(2点・1点・1点)が出土しているが、木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう。
 青谷上寺地と同じ因幡に所在する2遺跡はどうであろうか。鳥取市布勢鶴指奥墳丘墓SX06には銅鏃(1点)が認められた。出土状況からは墓壙内に残されたいきさつは判断できないが、中心主体部の底面形態から埋置された棺が舟底状木棺と考えられることや破砕した土器を供献する点に丹後あるいは但馬といった東の影響を見て取ることができ、銅鏃についても副葬品と考えたほうが妥当であろう。鳥取市桂見1号墓は後期末に属するものであり、第1主体(1点)と第3主体(1点)から鉄鏃が出土している。第1主体例は墓墳上面の出土であり、第3主体は写真を見る限り底面直上付近と思われるが、ヤリガンナと並ぶように出土していることから、両者とも副葬されたものと思われる。西伯の大山町仙谷3号墓第5埋葬主体の鉄鏃(1点)は底面直上と報告されているものであるが、人体に嵌入していたものかどうか判断できない。こうしてみると墓壙内出土の鏃は青谷上寺地人骨にかかわる後期に属するものに限れば、副葬品と判断されるものがほとんどで、人体に嵌入したものと分かるものはない。    (湯村 功)
(2)青谷上寺地と「倭国大乱」との関係
 以上のように見てみると、青谷上寺地遺跡において殺傷痕の残る人骨が埋められた時期、言い換えれば多数の殺傷痕を生じさせる何かが起こった時期というのは、史書に伝える「倭国大乱」の時期と重なるものの、遺跡周辺地域においてはそれを考古学的に証明することができない。「倭国大乱」と呼ばれる争乱は記述によれば国々の争いであり、考古事象に現れる場合は広い地域に共通する社会の動きが見出せるはずである。青谷上寺地の弥生後期後半に起こった出来事は、環濠の掘削や廃絶との関係で顕著に示されたように山陰から丹後までの日本海沿岸地域の中では弥生社会の動きと連動したものとは思えない。
 断っておきたいが、弥生時代の戦いそのものを否定はしないが、弥生後期後半に青谷上寺地で起こった多数の殺傷痕を生じさせた出来事は、それ以外の考古事象からは「倭国大乱」を直接的に示すものとは断定はできないことがいいたいのである。もちろん人が多数傷つき、埋葬された遺体を掘り起こして環濠に埋め込むことなど、とても尋常なこととは思えない。何かが起こったであろう。しかし安易に「倭国大乱」と結びつけることは危険である。何が起こったのか、それを明らかにすることはできなかったが、近年盛んな「弥生戦争論」に対する問題提起としたいのである。    (湯村 功) 

2 青谷上寺地遺跡出土鉄器の総合的評価

・・・・・。
 中期後葉段階には鍛造工具が一定量存在し、同段階の鉄片、棒状鉄器には加工痕が認められることから、集落内での鉄器生産が開始されたと想定する。稚拙なつくりの袋状鉄斧、板状鉄斧や裏すきをもたない鉇などは本集落の所産である可能性が高い。それらに、相対的に良質な鉄斧や舶載品が加わる組成となる。簡易なつくりの鉄斧と複雑かつ立体的なつくりの鉄斧二者は後期初頭から古墳前期初頭まで九州系の製品が見られることもあり同期まで共存する。また、製品から別の製品を得ようと試みた未製品と見られるものは中期後葉段階から見られるが、初期のものは再加工の技術も稚拙である。後期でも概ね後半段階になると数量的にも一気に増加し、製品の形態や大きさに目的に沿ったバリエーションが出てくる。再加工を含めた鍛冶技術の進歩も看取でき、鋳造鉄器破片の再利用の仕方も中期段階に比して変化が認められる。      (高尾浩司)

3 私見
(1) 魏志倭人伝には「倭人は、帯方郡の東南の大海の中(日本海沿岸=鳥取県中部)にあり、山(蜘ヶ家山・四王寺山・土下山・向山・大平山など)や島(北条島・大島・穴窪=軽島之明宮・龍島など)によって国や村をなしている。・・・。倭の兵器には、矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢には、鉄鏃(宮内第5遺跡)や骨鏃(青谷上寺地遺跡)を用いる」とあり、倭国は銅鏃を用いない。青谷上寺地遺跡から弥生時代後期以前の鉄製品は274点出土している。このことより、少なくとも、青谷上寺地遺跡は銅剣・銅鐸の青銅器文化の一族(出雲族)ではないことが判る。青谷上寺地遺跡から出土した60点の銅鏃は青銅器文化の一族(出雲族)が青谷にいた一族を虐殺するために用いたと思われる。骨鏃は青谷上寺地遺跡から42点出土している。鉄鏃は鳥取県中部の王族に渡していたと思われる。
 「海中」の意味は「対岸」である。事代主や準王の文章にも「海中」とある。倭国(倭州)とは、当時、列島に100あまりあった小国の一つであり鳥取県中部であった。
(2) 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷皇子は、菟砥の河上(川上)においでになり、鍛冶の名は河上(川上)という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部(舎人)を、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に納めた」とある。
 垂仁天皇(私見では在位230年~250年)は古墳時代前期の天皇であり、湯梨浜町大字川上(字鍛冶屋谷)宮で太刀一千口を造らせた。材料は三朝町から得た。三朝町で204のたたら遺跡が見つかっている。その刀を忍坂邑(三朝町片柴)から倉吉市大原の石上神宮に納めた。
 当時、青谷と鳥取県中部とは鉢伏山側を通る県道51号線で湯梨浜町川上集落まで結ばれていた。近世は因幡国であるが、当時は鳥取県中部に属していた。鍛冶技術を持ったものが青谷から湯梨浜町川上に来たと思われる。
(3) 湯村功は「木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう」とするが、こういうものは副葬品ではない。湯村功は鉄鏃・銅鏃はすべて副葬品だとするが、九州(鹿児島県・佐賀県・福岡県)で出土した弥生中期の鉄鏃は棺内にあってもすべて副葬品ではないとしている。1点や2点は人体に嵌入したものとみるべきである。
 また、「遺跡周辺地域においてはそれを考古学的に証明することができない」とするが、すぐ近くの湯梨浜町の宮内遺跡をわざと隠しているとしか思われない。宮内第5遺跡2号墳(弥生時代後期)石棺内から出土した107cmの鉄刀と12点の鉄鏃は明らかに副葬品である。きれいに並べておいてあり、生前、埋葬者が使う予定であった鉄鏃である。6年前(1996年)に刊行されていた宮内遺跡発掘報告書の鉄鏃12点を、知らないはずはない。なぜ挙げなかったのだろうか。倭国は鳥取県中部だ、という証拠を示したくなかったと思われる。
 「しかし安易に倭国大乱と結びつけることは危険である」とし「弥生戦争論」に逃げているが、「危険」とは何を意味するのであろうか。青谷上寺地の虐殺を倭国大乱と認めてしまうと倭国とは鳥取県中部にあったことになり、今までの日本の古代史の定説が覆り、古事記・日本書紀の信憑性が揺らぐからである。 
  
 


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