「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

高杉神社は孝霊天皇や稚日女(卑弥呼)が鳥取県中部を取り返し妻木晩田を攻撃した時の拠点であった

2018-07-24 16:32:46 | 倭国大乱の原因
1 先の大戦で日本は相手を鬼畜米英と呼び、アメリカは日本人を猿(モンキー)と呼んだ。戦争では相手を蔑称で言うのが通例であり、これは古代でも同じであった。ヤマト王権は殷王朝末裔の準王一族(出雲族)を鬼・土蜘蛛・猿・河童と蔑称で呼んだ。

2  鳥取県大山町宮内の高杉神社
 
 参道を奥に行くと鳥居がある。向こうの山が孝霊山である。

 祭神 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
 由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳、近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻媛)に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。

3 私見
(1) 孝霊天皇は倭国大乱が始まる前に大山町長田の孝霊山中腹の宮殿に朝妻姫と住んでいた。倭国大乱が始まり孝霊天皇一族は天日矛一族のいる但馬に疎開した。
 疎開してから11年後、卑弥呼(倭姫命)は大吉備津彦(崇神天皇)や若日子建吉備津日子(開化天皇・倭健命)と一緒に瀬戸内や吉備国を平定して、但馬、因幡を平定してきた父の孝霊天皇と鳥取県中部で合流した。その後、妻木晩田の平定に向かった。
(2) 高杉神社は孝霊天皇が但馬に疎開して11年後に反撃し妻木晩田を攻撃した時の拠点と思われる。
 本媛とは細姫ではなく、近くの妻木から娶られた朝妻姫と思われる。妻木晩田は出雲文化である。朝妻姫は出雲族であっった。「謎の出雲帝国」には、「神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。出雲神族の反乱を防ぐためでもあった。」とする。
 松媛之命、千代姫之命も妻木晩田の出雲族であったと思われる。本媛に嫉妬して自殺したのかもしれない。うわなり神事は海岸まで行く。「松媛之命、千代姫命の霊魂が本媛に対し嫉妬の崇あり」とするので、自殺したと思われる。この事件が出雲本家には孝霊天皇が殺したと伝わり攻撃してきたと思われる。
(3) 妻木晩田の出雲族は手間山に逃げ込んだ。孝霊天皇は、米子市上安曇、南部町中、江府町日光村、日南町宮内に行った。孝霊天皇は妻木晩田、手間山、鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定していった。出雲で和平協定が成立してからは、孝元天皇に皇位を譲り、広島県府中市の南宮神社で生涯を終えた。いずれも天孫族が大陸に行くためのルート上にあり伯耆国の西部である。
 倭国大乱の最初は出雲神族の誤解から始まったが、大陸へ行くルートを確保することも大事であった。孝元天皇は皇居に残り伊邪那岐命・伊邪那美命を祀るなど後方から支援していた。孝霊天皇の腹違いの子である孝元天皇と卑弥呼・大吉備津彦と若日子建吉備津日子は天日矛・物部や鬼に苦しめられた地元の者達の協力によって、中国地方の倭国大乱を終結した。

 おまけ
 高杉神社の前では稲刈りをしていた。


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