「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

藤原四兄弟は新羅から来た疫病で亡くなった(737年)のではなく、新羅から来た刺客によって亡くなった

2018-08-04 10:23:52 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

1  藤原四兄弟と舎人・新田部は奈良にいた長屋親王を死に追いやってから、倭の都(鳥取県中部)にいた穂積天皇の次の天皇(大君)を死に追いやっている(734年)。倭の都(鳥取県中部)と新羅とは、火火出見(山幸彦)が辰韓に行き(紀元前130年頃)、神武天皇が倭の都(鳥取県中部)で即位し(紀元前60年)、兄の稲飯命が新羅国を建国した(紀元前57年)頃から800年ほど兄弟国として交流してきた。倭の天皇(大君)が殺されて、新羅が黙っているわけがない。


2  通説は、藤原四兄弟が亡くなったのは続日本紀から推測して死亡原因は疫病である、とする。737年の疫病について書かれている古文書は続日本紀以外には見つからない。続日本紀は藤原氏が作成した歴史書である。日本書紀と同じように虚偽が多くある。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったとなれば芋づる式に別に倭の天皇がいたことが判って万世一系ではなくなってしまう。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったことは隠さなければならなかった。
 新羅は事の真相を確認するために735年に使者を奈良に派遣した。新羅は、亡命百済朝廷が702年の遣唐使で唐に国号を「日本」に変えたと宣言したことを知っていたので、亡命百済朝廷の反応を見るため、国号を「王城国」に変えたと宣言した。新羅の刺客は同じ年に舎人・新田部を殺害した。737年にも刺客を送って藤原四兄弟を殺害した。亡命百済朝廷は京都に遷都後も新羅の海賊から守るために、日本海側5か所に四王寺を造った(9世紀)。


3  聖武が逃げ回ったのも、疫病からではなく、新羅の刺客からである。時の天皇が疫病のために4回も遷都するなどあるはずはない。倭は全国を統一支配しており、倭の拠点は全国に多くあった。倭の天皇ならば全国の拠点からもたらされる情報に即座に対応しなくてはならないのだから、そうそう遷都はできない。このことからも、聖武は亡命してきた百済王族の王であったことがわかる。百済のように簡単に遷都する。しかし、聖武の在位中に列島の王は1人になったので、天皇をつけてもよいかもしれないが、姓は天(アマ)ではない。阿毎(アマ)の姓を名乗る天皇は、鳥取県中部(倭の都)にいた天皇であり、穂積天皇の次の天皇で途絶えた(734年)。


4  藤原氏は741年ころより、伯耆国に新たに国庁をつくり、法華寺畑の処刑場も造って伯耆国(主に鳥取県中部)の粛清を始めた。
 大友皇子は飛鳥を倭京(日本書記・天武天皇・近江朝廷の対応)と呼んで百済王族の近江朝廷とは区別していた。亡命百済人の藤原氏は奈良で倭に助けてもらった恩を忘れて、奈良を倭京(倭が造った京)と言い、いつまた新羅の標的にされるかも判らないので、84年で奈良を捨てて京都に都した。京都に遷都(794年)してからも藤原道長が「望月の欠けることなし」と言った頃(1018年頃)まで、鳥取県中部(倭の都)の粛清を続けた。京都では新羅の都・慶州に負けじと千年以上我慢して遷都しなかった。その間も中国・朝鮮に怯えていたので、鎖国政策をとり続けた。藤原氏は「鳥取県中部は田舎であり、何もない」と言い、京都人にも言うように仕向けた。今でも京都人は鳥取県中部に来ると「鳥取県中部は田舎であり、何もない」と、他府県から来た者なら言わない言葉を突然、必要以上に言う。



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