1 白村江の戦いの仕掛人
斉明天皇・7年5月・において「智興の供人の足島のために讒言され、使人らは唐の朝廷からお褒めの言葉を受けられなかった。使人らの怒りは上天の神に通じて、足島は雷にうたれて死んだ。時の人は『倭の天の報いは早いことだ』といった」とある。讒言したのは足島ではなく数百年交流が続いてきた鳥取県中部にあった倭朝廷である。「百済の賊が倭国出身の蘇我入鹿天皇と蘇我倉山田石川麻呂天皇をテロで暗殺したので百済を滅ぼして欲しい」と倭国の使いは唐の朝廷に言った。唐は仕方なく新羅と組んで百済を滅ぼした。
2 不比等による暗殺
天武天皇の壬申の乱から10年の間に20人の天武天皇の腹心が謎の死を遂げている。首謀者は不比等か持統である。不比等と持統は影で食事に毒薬を混入させた。669年父の鎌足が殺害された時は不比等はまだ11才であった。鎌足の子3人は天武天皇に引き取られた。不比等は権力者を徹底的におだてた。腹心の部下も不比等を信用していた。天武天皇の人気が上がれば上がるほど倭国を乗っ取りたくなった。父親(鎌足)の敷いたレールを歩むことになる。壬申の乱で手柄のあった天武天皇の腹心の部下を次々と暗殺(毒殺)していった。仕上げは天武天皇であった。
天皇になった天武天皇の皇子も毒殺していった。権力のためには手段を選ばなかった。それが父親の遺志であった。
天武天皇はどうしたのであろう。頭は良いし、勇気もあるし、人望も厚いし、実行力もあるのだが、人が良すぎて疑うことを知らない。一時全国の獄が空になったくらい恩赦をしている。不比等を疑って殺していたなら、日本の歴史は変わっていた。天武天皇にとってはみんないい人なのである。倭王朝の天皇は概しておおらかである。日本書紀・天武天皇の条は改ざんが少ないと思われる。天武天皇には壬申の乱で痛めつけられていたので、後の藤原氏も天武天皇に敬意を払っていたようである。口伝えに天武天皇の条は改ざんしないでおこうという暗黙の了解があったようである。読んでいて不自然さがない。
3 伊勢神宮について
天武天皇・即位・2年夏4月14日において「大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここはまず身を潔めて、しだいに神に近づくためのところである」とあり、天武天皇・即位・3年冬10月9日において「大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた」とある。
泊瀬の斎宮とは倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。伊勢神宮と書いてあるが、三重県まで行ったのであろうか。この時は三重県に伊勢神宮はなかった。三重県ではなく、近くに伊勢神宮がありました。鳥取県琴浦町伊勢野にあった生きた天照大御神が降臨した天照皇大神宮である。鳥取県道151号線は泊瀬の斎宮と伊勢神宮を結ぶためにできていた専用道路であったと思えるくらい端と端にある。高姫(下照姫)が通ったのもこの道路である(八橋の地名由来)。
持統・伊勢行幸・6年3月6日において「天皇は諌めに従われず、ついに伊勢に行幸された。17日、お通りになる神郡(度会・多気の両郡)と伊賀・伊勢・志摩の国造らに冠位を賜わり、当年の調役を免じまた供奉の騎士・諸司の荷丁・行宮造営のための役夫その年の調役を免じ、全国に大赦をされた。」。6年5月13日において「伊勢神宮の神官が天皇に奏上し、伊勢国の今年の調役を免じられましたが、二つの神郡(度会郡・多気郡)から納めるべき赤引糸三十五斤は、来年に減らしたいと思います、といった。」とある。
持統の伊勢行幸の主目的は、千田寺の前に勅使門(不開門)を造って蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の崇りを封ずることであった。指示したのは不比等である。伊勢・度会の地名は鳥取県琴浦町にあったものを713年以降に付けているから、この部分は後世に書換えている。免じたのは志摩国の調役である。伊勢神宮の神官ではなく、志摩国磯部の伊雑宮の神官である。ここで天照大御神を祀っていた。現在の伊勢神宮のあたりには、瓊瓊杵命の社だけしかなかったそうである。今でも磯部の伊雑宮周辺では持統の人気は悪い。持統は伊射波の登美のいたあたりで見つかった財宝を総て持逃げしたという。そのように、卑弥呼の造った磯部の伊雑宮の栄光を総て伊勢神宮に持逃げしていった。