初代神武天皇 畝火之白檮原宮 鳥取県倉吉市大宮。 第二代綏靖天皇 葛城高岡宮 鳥取県北栄町曲岡神社。 第三代安寧天皇 片塩浮穴宮 鳥取県湯梨浜町橋津観音堂。 第四代懿徳天皇 軽之境岡宮 鳥取県倉吉市小田。 第五代孝昭天皇 葛城掖上宮 鳥取県倉吉市穴沢灘手神社。 第六代孝安天皇 葛城室之秋津島宮 鳥取県北栄町大島。 第七代孝霊天皇 黒田廬戸宮 鳥取県湯梨浜町宮内倭文神社。 第八代孝元天皇 軽之堺原宮 鳥取県倉吉市小田。 第九代開化天皇(倭健命) 鳥取県北栄町瀬戸観音寺。 第十代崇神天皇 師木の水垣宮 鳥取県湯梨浜町長和田。 第十一代垂仁天皇 師木玉垣宮 鳥取県湯梨浜町川上。 第十二代景行天皇 奈良県纒向日代宮。 第十三代武内宿禰大王 鳥取県北栄町原元野神社。 第十四代仁徳天皇 難波高津宮 鳥取県湯梨浜町松崎神社。 第十五代応神天皇 軽島之明宮 鳥取県倉吉市穴窪。 難波大隅宮 鳥取県湯梨浜町小鹿谷。 第十六代履中天皇 磐余稚桜宮 鳥取県北栄町米里。 第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。 第十八代允恭天皇 鳥取県倉吉市下古川。 第十九代安康天皇 石上穴穂宮 鳥取県倉吉市大原。 第二十代雄略天皇 泊瀬朝倉宮 鳥取県倉吉市打吹山長谷寺。 第二十一代清寧天皇 磐余甕栗宮 鳥取県北栄町米里。 第二十二代仁賢天皇 石上広高宮 鳥取県倉吉市大原。 第二十三代武烈天皇 泊瀬列城宮 鳥取県倉吉市打吹山。 第二十四代継体天皇 磐余玉穂宮 鳥取県北栄町米里。 第二十五代安閑天皇 勾金橋宮 鳥取県三朝町大瀬大宮神社。 第二十六代蘇我稲目大王 師木島大宮 鳥取県湯梨浜町龍島 泊瀬柴籬宮 鳥取県倉吉市打吹山大江神社。 第二十七代蘇我馬子大王 磐余池辺双槻宮 鳥取県北栄町島 第二十八代蘇我入鹿大王 等由良宮 鳥取県北栄町由良。 第二十九代蘇我倉山田石川麻呂大王 難波長柄豊碕 鳥取県湯梨浜町長江。 第三十代天武天皇 賀茂皇大神宮 鳥取県倉吉市葵町賀茂神社。 第三十四代 北野神社 鳥取県倉吉市北野神社
2 鳥取県中部に特定できなかった天皇
第十二代景行天皇 奈良県纒向日代宮
3 私見
(1) 初代から第三十代までの大王(第十二代は除く)は、鳥取県中部に皇居があった。
なぜこう言えるかというと、倭王朝の一族は一旦ここは良い地だと決めて都と決めれば、よほどのことがない限り、皇居のある都を変えない一族だからである。新羅も同じ一族の稲飯命が建国したのであるが、その都慶州は千年の都と言われた。同じように、瓊々杵命が「いと良き地なり」と言い、神武天皇が「狭い国だが良い国をえた」と言って初代天皇として即位し、倭健命が「ヤマトは 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる ヤマトし 美し」と歌を詠んでから、倭国の外を活動本拠地にしても、皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。たとえ出張先が吉備であっても皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。
(2) 宋書倭国伝には倭王武(雄略天皇)の父(済)と兄(興)は戦死したように書いている。
第十二代景行天皇は卑弥呼(倭姫)が亡くなった後、都を志摩国から奈良の纒向に遷した。
第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。
本当の河内国(戦前までの日下村と西郷村)にあった丹比柴籬宮は、候補地が12ヶ所あり、特定が困難である。
(3) 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では歴代29人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を造ったが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営した。