天忍穂耳命、長男の鐃速日命、次男の瓊々杵命について
1 松河原神社(鳥取県大山町松河原 逢坂八幡神社に合併)
祭神 うけいで発見された8神(多紀理姫・多紀津姫・狭依姫・天忍穂耳・天穂日・活津彦根・天津彦根・熊野久須日)・天照大御神・素戔嗚・稲田姫
- 私見 天忍穂耳は天照大神・素戔嗚を追って大山町松河原まで到着していた。
2 壹宮神社(鳥取県大山町上万)
祭神(大正合併の祭神は除く) 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、萬幡豊秋津師姫命、天饒石国饒石天津日高彦火瓊々杵命
由緒 創立年月不詳と雖も、郡中の旧社にして、古来壹宮大明神と号し、往昔より神田若干を寄附せられ、元和寛永の頃に至りても旧格に準ぜられ、崇敬他に異なりしこと古證書等に判然たり。故に今猶宮田神子森田などの字近傍の耕地に存す。又一ノ宮と称すること社伝に曰く「高木神天照大神の勅命により正哉吾勝命降り坐さんとする時、皇孫瓊瓊杵逸速く御誕生遊ばされし故を以て、古く一ノ宮と称し奉るなり」と。古事記に曰く「爾天照大御神、高木神之命以、詔太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、今平訖葦原中国之曰、故随言依賜、降坐而知看、爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命答曰、僕者将降装束之間、子生出、名天邇岐志国邇志天津日高日子番能邇々芸命、此子応降也」とあるを以て証すべし。又旧記に拠なしと雖も、古老の口碑に伝ふることあり、「往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方(あた)り神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号す」と。
- 私見 古老の口碑に伝ふる「往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方(あた)り神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号す」は「神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、・・・・・因て人民迎尊して」であり、「・・・・・」は明治維新の申請時に削除されている。
壹宮とは藤原氏の延喜式式内社(927年)の一宮ではない。734年以前の伯耆国で最初にできた神社である(紀元前)ことを示している。天照大神が降臨した琴浦町の伊勢神宮や素戔嗚命が十握剣を奉納した石上神宮(倉吉市大原)よりも古い創建と思われる。一番古いのだから、祭神は第2子の瓊々杵ではなく第1子の饒速日でなくてはならない。父の天忍穂耳は11km東の松河原で発見されている。その後、第1子の饒速日が大山町上万の壹宮神社の地で生まれ、江府町江尾に移った、とするのが無理がない。
天忍穂耳は鳥取県大山町の松河原で発見され壹宮神社で饒速日を生んだ。
3 江美神社(鳥取県江府町江尾)
祭神(大正合併の祭神は除く) 天照国照彦天火明櫛玉鐃速日命、伊弉諾命、厩戸豊聰耳命、倉稲魂命
由緒 創立年月不詳、旧記に拠れば昔時天歴年中此の地方に進氏(永禄年間江美城主蜂塚右衛門尉の重臣進五郎兵衛の祖先なり)と云ふ豪族ありて、地方を開拓して多くの荘園を有し土民と撫育せしが、其の頃大和国石上神宮の御分霊を勧請せるものなりと云ふ。往古は磐船神社と称せしが、(勧請の時天之磐船をを模造せる神輿に奉安して迎へしによれると云)其後厩戸豊聰耳命を合祭して王子権現と改称せり。当社は古来此の地方の産土神にして細原荘(小原荘とも云)一円の総鎮守なれば、往古より大社或は大宮又高氏等の社格を称へしことあり。後永禄八年八月蜂塚氏吉川氏の為に攻落さる。此の時社殿兵燹に罹り古文書宝物等を焼失す。
- 私見 厩戸豊聰耳命(聖徳太子)は北栄町由良に宮のあった蘇我善徳大王である。倉稲魂命(豊受姫)は天香語山(金持神社)の世話をしていた。
4 邇邇芸を祀る鳥取県西部の神社
※ 私見 この14社のうち6社は天忍穂耳と邇邇芸が祀られている。天忍穂耳と岡山県生まれの邇邇芸は鳥取県西部で一緒に行動していない。壹宮神社で生まれた饒速日は江府町の江尾神社に定住するまで父の天忍穂耳と一緒に行動していた。したがって、以下の6社の祭神は邇邇芸でなく、饒速日であった。
1 勝田神社 2 壹宮神社 6 熊野神社 11 山根田神社 12 霞神社 13 福成神社
5 神田神社(倉吉市関金町)
祭神 天照日大御神・天忍穂耳命・日子番能邇邇芸命・日子穂穂手見命・鸕鷀草葺不合命
- 私見 江府町鏡ヶ成から降臨したのは饒速日であった。神田神社は邇邇芸のコースからそれている。邇邇芸は矢送神社から楯縫神社にまっすぐ遷っているので、わざわざ神田神社に寄っていない。祭神は饒速日であった。
6 日吉神社(倉吉市関金町)
祭神 大己貴神・国常立神・正哉吾勝神・国狭槌神・伊邪那美神・瓊瓊杵神・惶根神
- 私見 正哉吾勝神とは天忍穂耳である。日吉神社から船が出せるようになっている。瓊瓊杵に船は関係ない。日吉神社には船に乗った饒速日がいた。祭神は饒速日であった。
7 耳集落(倉吉市関金町)
九州の方で神武天皇の子供に耳が付くので耳族と名付ける方がいたが、耳とは生まれた地名である。鳥取県倉吉市関金町耳集落のことである。天忍穂耳の生まれは中国だが、天孫が降臨するとき、しばらく倉吉市関金町耳集落を拠点としていた。小鴨川を降る饒速日の船に乗って哮峰の素戔嗚に会った。
8 哮峰(倉吉市八幡神社の峰)
素戔嗚の待っていた哮峰に天忍穂耳・饒速日・天香語山・猿田彦・豊受姫・和久産巣日神など大勢が降臨した。
9 倉吉市夏谷(鳥見の白庭山)
瓊瓊杵の大宮神社、木花之佐久夜毘売の高江神社で弥生時代後期の住居跡が多く見つかっている。夏谷でも弥生時代後期の住居跡が多く見つかっているので、饒速日が定住したところと思われる。
10 矢送神社(倉吉市関金町山口)
祭神(大正合併の祭神は除く)天津彦火瓊瓊杵尊、天児屋根命、天太玉命
由緒 当神社は人皇八十九代亀山天皇御宇文応元年、日向国高千穂槵觸の峯より勧請し矢送庄九ヶ村の大社として奉祀したるものとなりと云ひ伝ふ。
- 私見 由緒は明治政府による創作である。瓊瓊杵は蒜山の長田神社、加茂神社の祭神になっている。加茂神社から犬挟峠を越えて矢送神社に来た。生まれたのは旭川の下流域である。
11 楯縫神社(倉吉市上福田)
祭神 瓊々杵尊、底津少童命、中津少童命、上津少童命
由緒 創立年月不詳なれど元禄六年癸酉卯月に再建せること社記に見ゆ。明治十四年旧郷名に因み楯縫神社と改称す。
※ 私見
倉吉市高城地区の旧郷名は楯縫郷であった。出雲の楯縫郡は明治政府によって創られたものであった。
妻ノ神(猿田彦)集落が楯縫神社の前にあるので、猿田彦と瓊々杵は百八十神(出雲族)の子が葦原中津国で成長するのを待っていた。
楯縫神社の南は少し高い丘陵地になっているので薄暗く、日照時間は短い。
12 大宮神社(鳥取県北栄町上種 高尾八幡宮に合併)
祭神 大己貴命、別雷神、瓊々杵命、素戔嗚命、菅原道真
※ 私見
瓊々杵命は楯縫神社から大宮神社に遷った。大宮神社周辺は日差しを遮るものがなく、日照時間は長い。瓊々杵命は「朝日が直に射し夕日が火照る国」と言った。瓊々杵は地元のものに「日向御子」というあだ名を付けられた。大宮神社を取り巻くように弥生時代後期の43の住居跡が発掘されている。
13 私見
壹宮神社の祭神は第2子の瓊々杵ではなく第1子の饒速日であった。壹宮神社で生まれた萬幡豊秋津師姫の子は瓊々杵ではなく第1子の饒速日であった。天忍穂耳がうけいで始めて見つかった場所は壹宮神社の11km東の松河原神社(祭神、うけいの8神)であった。天忍穂耳は辰韓から天照大神と素戔嗚のあとを追って大山町松河原の海岸に上陸した。
瓊々杵は蒜山の長田神社と加茂神社に祀られている。瓊々杵が加茂神社から矢送神社に降臨するのに鏡ヶ成を経由して矢送神社に降臨するルートは想定できない。加茂神社から犬挟峠を越えて直接、矢送神社に至ったと想定するのが無理がない。鏡ヶ成から降臨したのは饒速日であった。国史は瓊々杵と饒速日を入れ替えている。瓊々杵は旭川の川下で生まれており、壹宮神社で生まれていない。
饒速日が亡くなってから、瓊々杵は蒜山の加茂神社から犬挟峠を越えて倉吉市関金の矢送神社→倉吉市上福田の楯縫神社→北栄町下種の大宮神社に降臨している。北栄町には笠沙之御前(北条砂丘)が前にある葦原中津国が確認できる。
江府町の江尾神社の祭神に豊受姫(倉稲魂命)がいる。江府町の下蚊帳で蒜山高原の神々と合流し江府町の鏡ヶ成を降り野添経由の神田神社までは天照大神とも一緒に降臨した。豊受姫(倉稲魂命)は鐃速日たち大勢と一緒に素戔嗚の待っていた倉吉市八幡神社の峰(哮峰)に降臨して天香語山の世話をしていた。豊受姫(倉稲魂命)はのちに瓊々杵とも一緒に行動しているので、饒速日が亡くなってから、倉吉市関金町の矢送神社と上福田の楯縫神社で幼い瓊々杵の世話もしていた。