美保神社で行われている諸手船神事
大国主が事代主に国譲りの伝令を送ったときの神事。宮崎県から鯛釣りに来ていたのだろうか。鳥取県中西部から鯛を釣ろうと思えば今でも島根半島へ行く。
対岸にはおいしい水の出る、大山が見える。この大山が屏風の役割をして、鳥取県中西部は台風被害が少ない。
1 美保神社の由緒
事代主は海中に青柴垣をお作りになり、天逆手を拍っておこもりになり、大國主はそのお言葉通り國土を御奉献になったと傳へてゐる。かくて事代主は多くの神神を帥ゐて皇孫を奉護し我國の建國に貢献あそばされた。又神武天皇綏靖天皇安寧天皇三代の皇后はその御子孫の姫神で、國初皇統外戚第一の神にあたらせられ、なほ古来宮中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。
※ 私見
毎年4月7日に青柴垣神事があるが、青柴垣と波波伎神社の由緒にある青柴籬とは同じものである。「海中に青柴垣をお作りになり」とは「海の向こうに青柴垣をお作りになり」である。
「初代・2代・3代の皇后は事代主の御子孫の姫神」とある。「謎の出雲帝国」に「神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった」とある。事代主は出雲族であることがわかる。大国主は素戔嗚の子であり、天孫族の仲間である。
2 波波伎神社の由緒
神社明細帳には、「事代主大神、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。
※ 訳
"大国主の国譲りの後、事代主が一ツ木の神玖四浮根(亀谷丘陵=クシフルタケ)から福庭の地に移り、福庭の青柴籬が何時までも青々と茂っているように、皇孫の御代も栄えるであろうと予祝し、己は皇孫の近き護り神となろうとおっしゃって、天逆手を打って青柴籬の内に鎮まられた天栄手の宮が当社である"。
3 伝承
事代主は、青柴垣に隠れたとあるが、地元には、国譲りの後、実は船を乗り換え海路ひそかに福庭の地に上陸したという伝承がある。事代主は、後々のトラブルに巻き込まれるであろうと考え、波波伎神社奥にある泉の畔に隠れ棲んだ。また「ヤマト朝廷は、事代主が乱を起こすのを恐れて、毎年、当地まで使者を遣わして、その動静を監視していた」(大意)との伝承もある。事代主はそこで生涯を終えた。
※ 私見
一ツ木の神玖四浮根(神のクシフネ)とはクシフルネのことでありクシフルタケ(亀谷丘陵)と同義である。度重なる転記と「船足」に惑わされ「ル」が欠落したと思われる。「クシフルネ」は百済の藤原氏が倭国を乗っ取る以前に使われていた新羅語であり、奈良時代以前の文書と思われる。
事代主もクシフルタケ(亀谷丘陵)の先端(尾崎)に住んでいた。前まで入江が入りこんでおり、そこに船を止めていた。国譲り後、亀谷丘陵の山側の高いところに瓊々杵命は御所を造り、先端(尾崎)には木花之佐久夜毘売を住まわせた。クシフルタケ(岳)とは丘陵地(尾根)のことであり、高くそびえた山ではない。
波波伎神社の伝承に「波波伎神社奥にある泉の畔に隠れ棲んだ」とあるが、これも度重なる転記により湖(みずうみ)が泉(いずみ)になった。普通、畔(ほとり)の文字は湖に使う。「湖の畔」とは東郷湖畔の湯梨浜町長和田であった。事代主と百八十神は湯梨浜町長和田に移り住んだ。