磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。
1 北栄町米里集落に皇居の候補地は3ヵ所ある。一つ目は一の崎、二つ目は三の崎である。「二の崎はどこにあるのでしょう」と地元の人は言っていた。三つ目の候補地は「船渡」ではなく「大谷」である。
一の崎・三の崎は、丘陵地を囲むように民家が建っている。皇居はこの丘陵地にあった。
2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。
本当の磐余池は北栄町島集落の金繰溜池であった。池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇である。
「当社は一の崎峯に鎮座のところ、此の度下大町に改め整備し遷す。一の崎・大町・氏子一同」とある。もとは、一の崎峯の丘陵地にあった。ここでも大町の大は王と読める。反対説があるが、鳥取県中部では「王」を「大」に直している。
3 こちらを「三の崎」と言っていた。三の崎にいたのは継体天皇である。
米里字三の崎には、嶌澤神社があった。大正2年に藤原氏の神社北条八幡神社に合祀され、分らないようにされている。姥ヶ谷にはどの天皇かの皇太后がいたと思われる。
4 「船渡」
「船渡」と言う。土下山(鳥見の白庭山=天の香久山)の登り口である。水田の下は葦の層が厚く堆積していると言う。このあたりに船が来ていたのは、天孫降臨の頃、紀元前200年頃(海抜4m)である。
5 「大谷(王谷)」
5軒ほどしかないが、「大谷」と言う。「大谷」に三天皇のうちの一天皇が居た。在位期間の短い天皇である。大谷にいたのは清寧天皇である。
ここも天香具山の登り口である。
6 私見
藤原氏は米里・島集落に何もなかったように消しているが、痕跡は残っている。935年統一新羅が滅んで危険が亡くなったので、京都から来た山田氏(検非違使をしていた)は北条(北の都=条里制)山田八幡神社を創り、田村一族(高句麗出身)も連れてきている。
日本書紀は亡命百済人によって編纂されているため、百済王家の旧事が多く盛り込まれている。古事記もそれに合わせて改ざんしている。原古事記の文章も使っているが、それは日本が倭国を乗っ取ったことを判らないようにし、万世一系の皇統であることを作り上げる必要があったからである。
日本書紀は無道な百済王の事績を武烈王の旧事としている。武烈王には子供がなかったので他所から継体に来てもらった、という筋書きであるが、武烈も継体の旧事も百済国での出来事である。したがって、継体の名も違う名であったが、ここでは継体としておく。