三天皇が皇居を置いた磐余とはどこであろうか
1 磐余(伊波礼)を皇居とする天皇
履中天皇 磐余稚桜宮(伊波礼若桜宮)(北栄町米里一ノ崎)
清寧天皇 磐余甕栗宮(伊波礼甕栗宮)(北栄町米里大谷)
継体天皇 磐余玉穂宮(伊波礼玉穂宮)(北栄町米里三ノ崎)
継体天皇の皇統は途切れていないから皇居を転々と移してはいない。始めから磐余玉穂宮であった。
2 日本書紀・神武天皇では
兄猾弟猾・において「また兄磯城の軍は磐余邑にあふれた。敵の拠点はみな要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。・・・椎根津彦は神意を占って言うのに、わが君がよくこの国を定められるものならば、行く道が自らひらけ、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう。と言い終って老人老婆のかたちで直ちに出かけた。・・・道が開け、天香具山の赤土を無事に取ってきて平瓦や、手抉、厳瓮などをつくった。」とある。
長脛彦と金鵄・において、「磐余の地の元の名は、片居または片立という。皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余とした。またある人がいうのに『天皇がむかし厳瓮の供物を召上げられ、出陣して西片を討たれた。このとき磯城の八十タケルがそこに屯聚み(兵を集めて)した。天皇軍と大いに戦ったがついに滅ぼされた。それで名付けて磐余邑という』と」とある。
兄猾弟猾・において「また兄磯城の軍は磐余邑にあふれた。敵の拠点はみな要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。・・・椎根津彦は神意を占って言うのに、わが君がよくこの国を定められるものならば、行く道が自らひらけ、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう。と言い終って老人老婆のかたちで直ちに出かけた。・・・道が開け、天香具山の赤土を無事に取ってきて平瓦や、手抉、厳瓮などをつくった。」とある。
長脛彦と金鵄・において、「磐余の地の元の名は、片居または片立という。皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余とした。またある人がいうのに『天皇がむかし厳瓮の供物を召上げられ、出陣して西片を討たれた。このとき磯城の八十タケルがそこに屯聚み(兵を集めて)した。天皇軍と大いに戦ったがついに滅ぼされた。それで名付けて磐余邑という』と」とある。
3 私見
神武天皇が青銅器文化の一族を攻めて、皇軍があふれたから磐余(伊波礼)という、とある。これは、鳥取県中部に帰ってきてからの事柄だから、磐余は鳥取県中部にあった。天香具山は北栄町の土下山に比定したが、この山に上がるには北栄町米里集落を通らなければならない。
天忍穂耳が国譲りの交渉に葦原中津国に降臨しようとしたときには葦原中津国は騒がしかった。この時すでに準王一族(天孫族に遅れること16年)は葦原中津国と豊葦原瑞穂国(磐余邑)に到着していたと思われる。大国主の兄である八十神は準王一族(出雲神族)と思われる(千賊山の案内板より)。大国主と準王一族(出雲神族)は葦原中津国と豊葦原瑞穂国(磐余邑)に一緒に住んでいた。饒速日命は長髄彦の妹と結婚し土下山(トミの白庭山=アメの香久山)に住んでいた。土下山(トミの白庭山=アメの香久山)の周辺には準王一族(出雲神族)がいたはずである。四王寺山(畝傍山)と土下山(トミの白庭山=アメの香久山)とは近いが棲み分けていたと思われる。準王一族(兄磯城)は国譲りで事代主と一緒に天神川の東に退いていたが神武天皇の時代になって土下山(トミの白庭山=アメの香久山)に帰って来ていたと思われる。準王一族(兄磯城)は神武四兄弟が留守の間に土下山(トミの白庭山=アメの香久山)周辺を占拠していた。
青銅器文化の一族の兄磯城の八十タケルが米里集落に集まっていた。米里集落から銅鐸が発掘されている。当時米里集落の中央部は汽水池になっていたから「片立」であり「片居」であった。皇軍は米里集落の北の伊那佐山(茶臼山)に籠城していた。長髄彦は中洲(笠沙之御前の柄)の豪雄と呼ばれていた。青銅器文化の一族の兄磯城の八十タケルは天皇軍と戦ったがついに滅ぼされた。「不入岡」の地名は準王一族(出雲神族)に対する警告としてこの頃に付けられたと思われる。