1 第11代垂仁天皇(伊久米伊理毘古)の本拠地は岡山県久米郡美咲町百々大宮としたが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名とされる。岡山県の久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、鳥取県倉吉市の大宮は弓削なり久米の地名は岡山県より近くにある。ということは、ここにいた王は第11代よりも初期であったという推測が成り立つ。
火火出見(鵜草葺不合)は辰韓から船で1日で帰ってきて倉吉市の北面に到着し四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は師木邑(湯梨浜町長和田集落)水垣宮である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るは、初代の神武天皇である。
火火出見(鵜草葺不合)は辰韓から船で1日で帰ってきて倉吉市の北面に到着し四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は師木邑(湯梨浜町長和田集落)水垣宮である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るは、初代の神武天皇である。
2 地図より
県道38号線を通っても集落へ入る橋が見えないようにしてある。この形態は四王寺山の大谷集落とよく似ている。
大宮集落の東北に隣接する弓削集落。
左上は小鴨川。小鴨川の上流には耳集落がある。縦に流れる川は広瀬川。大宮集落は広瀬川に架かる橋一本で孤立している。大宮集落の隣は弓削集落。小鴨川周辺は伯耆国の旧久米郡であり久米中学や久米支所などの名が残っている。
倉吉市の大御堂廃寺は白鳳期すでに「久米寺」であった。伯耆国6郡の1つの久米郡の「久米」という地名は白鳳期よりずっと以前からあったと思われる。ちなみに日本書紀の「来目」は造語であった。
倉吉市の大御堂廃寺は白鳳期すでに「久米寺」であった。伯耆国6郡の1つの久米郡の「久米」という地名は白鳳期よりずっと以前からあったと思われる。ちなみに日本書紀の「来目」は造語であった。
大御堂廃寺から出土した「久米寺」と墨書された土器
白鳳期に創建された大御堂廃寺から出土した正倉院と同じ銅製匙(溝に落ちて一つだけ残っていた)
3 神武天皇は兄磯城に勝った後即位した場所は奈良ではない。橿原神宮が創建されたのは明治23年で国威発揚のためであり、テーマパークとして創建されたので史実に忠実ではない。奈良の橿原神宮とする説は少数である。
4 大宮の前にある小鴨神社
予測していた通り、大宮(橿原宮)から、父の火火出見が宮を定め、兄たちと育った日向の四王寺山(畝傍山)が北西に見える。
5 大宮橋を渡らないと大宮集落へは行けない。この橋が唯一の出入口である。
県道38号線より。大宮と書いてあるが、左を見ても橋は見えない。
大宮橋。大宮集落の出入りはこの橋だけでする。
広瀬川にかかる橋ひとつが大宮集落と外とをつないでいる。
6 弓削集落。
左が弓削集落。右の先に小鴨神社の社叢が見える。
弓削集落から大宮集落が見える。
7 私見
饒速日は江府町江尾から鏡ヶ成→野添→神田神社→日吉神社→船→八幡神社のある峰(哮峰)に降臨して素戔嗚と会い、しばらくここに住んでいた。天穂日の縁結びで長髄彦の妹と結婚した。長髄彦も哮峰の近くの倉吉市富海に住んだ。饒速日は次男のウマシマジが生まれる前に亡くなった。その後、饒速日の弟の邇邇芸は北栄町上種の大宮神社に降臨し木花之佐久夜毘売との間に火火出見(鵜草葺不合)が北栄町由良の高江神社で生まれた。火火出見(山幸彦)は3代目長髄彦(海幸彦)と折り合いが悪く、辰韓に3年間逃げていた。しかし、倭国に帰り四王寺山を本拠地として玉依姫との間に神倭磐余彦の4兄弟が生まれた。
饒速日は江府町江尾から鏡ヶ成→野添→神田神社→日吉神社→船→八幡神社のある峰(哮峰)に降臨して素戔嗚と会い、しばらくここに住んでいた。天穂日の縁結びで長髄彦の妹と結婚した。長髄彦も哮峰の近くの倉吉市富海に住んだ。饒速日は次男のウマシマジが生まれる前に亡くなった。その後、饒速日の弟の邇邇芸は北栄町上種の大宮神社に降臨し木花之佐久夜毘売との間に火火出見(鵜草葺不合)が北栄町由良の高江神社で生まれた。火火出見(山幸彦)は3代目長髄彦(海幸彦)と折り合いが悪く、辰韓に3年間逃げていた。しかし、倭国に帰り四王寺山を本拠地として玉依姫との間に神倭磐余彦の4兄弟が生まれた。
神倭磐余彦は火火出見(鸕鶿草葺不合)の子として四王寺山(日向)で育った。九州の鬼八を平定して五瀬と鳥取県中部に帰ってきたが、五瀬は長髄彦の矢があたって亡くなり、神倭磐余彦は福山市に退却して出雲から出てくる略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)を平定し、瀬戸内周辺の住民に高地性集落を造らせて略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)から命を守らせた。また、自分たちが生まれ育った倭国を取り戻す機会をうかがっていた。東は摂津国まで平定し明石にいた椎根津彦を引き連れて岡山県の旭川を北上し、蒜山高原を過ぎて鳥取県江府町の鏡ヶ成から倉吉市上大立(穿邑)に降った。江府町江尾に帰っていたウマシマジも神倭磐余彦に合流した。道臣たちは山側(南側)に穿って道をつけた。広瀬・円谷線もその一つであった。長髄彦のいた富海を遠まきにするように道をつけている。長髄彦は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。神倭磐余彦とウマシマジはその南で長髄彦と対峙した。長髄彦一族を平定してから倉吉市大宮に皇居(橿原宮)を置いた。長髄彦は亡くなったが一族は生田に移り住んだ。現在の倉吉市は長髄彦一族(出雲族)が中心になって築かれた自治体である。
日本書紀・神武天皇・宮殿造営に(觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之)「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。
第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の海岸近くに皇居を造ったが、神武天皇は海岸より山奥の倉吉市大宮に宮殿を造営した。私見では歴代天皇の皇居の中で一番奥(山側)にある。神倭磐余彦は倉吉市大宮で初代天皇として紀元前60年に即位した。神倭磐余彦の4兄弟の育った四王寺山の前の土塁(中尾遺跡)から紀元前100年頃の住居跡と国内最長の鉄矛が発掘された。
稲飯命が派遣する辰韓からの船には鉄の剣や鏃を積んでいて多芸志(湯梨浜町長瀬高浜)に到着していた。辰韓から来る途中の隠岐島から鳥取県中部(倭国)までの海が荒れないように上里神社を建立した。紀元前70年に稲飯命は辰韓に現れた。紀元前60年は現れてから10年経ったので、10歳と表現されている。稲飯命は紀元前57年に新羅を建国した。
赫居世居西干は、日向(四王寺山)の王を意味する。国号を徐那伐(ソナバル)としたが、神武天皇のソラミツ倭国と似ている。ソラミツ(徐等満)のソも「徐」であると思われる。
小鴨川の上流に神武天皇の子供が生まれた耳集落がある。下流に行けば多芸志(古代の舵)と言われていた高さが推定25mくらいの建物(出雲大社のモデル)のあった湯梨浜町の長瀬高浜に到る。多芸志耳は長瀬高浜の高い建物に上がり、新羅から難波津(東郷池)に来る船を誘導していた。