神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった
1 神武元年は日本書紀によると西暦紀元前660年に相当する。この神武元年は実際よりも古く改ざんされているという説がある。
なぜ神武元年を実際より古く見せなければならなかったか。
それは天照大神が紀元前210年に来倭した徐福であることを消す方法の一つとして紀元前210年よりもずっと古くしなければならなかったからである。天照大神が徐福であることを消す方法としては他に、欠史八代を作り長い寿命にしたり、72代にわたるウガヤフキアエズ王朝を創ったり、高天原は雲の上にあったとしたり、天照大神は女性であったとする、などがある。
ただ、何年改ざんされているかについては説が分かれる。(1)600年改ざん説 (2)660年改ざん説 (3)720年改ざん説がある。それぞれ確信のある年代から割出した説である。例えば660年改ざん説によると神武天皇の即位は西暦元年となり、西暦は西洋から来たのではなく神武天皇の即位を元年にしたものである、とする。
600年改ざん説は少数だが江戸時代すでに主張されていた。朝鮮半島との交易を調べるとこの説になるそうである。始めに600年ありきで、切りのいい600年改ざん説が正しいと思われる。どの天皇が何年水増しされているかについては、そもそも実在しない天皇も含まれているので全体で600年(60年×10回)としか言えない。干支がずれないように60年単位で増やしている。私は紀元前60年説が正しいと思う。
2 神武元年を紀元前60年(弥生時代中期)とする根拠。
(1)新羅の建国年
「新撰姓氏録」では、右京皇別 新良貴- 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」と記し、稲飯命は新羅王の祖であると伝える。
鈴木真年著作の「朝鮮歴代系図」には新羅王家の朴氏が飯氷命を遠祖とする系図を挙げ、赫居世居西干に仕えた倭人重臣の瓠公と同一人物であるとする。また、日本側に残る諸豪族の系図から推定された本来の皇室系図における稲氷命と、朝鮮側に残る新羅歴代の系図の赫居世が同世代の人物であり、暦年研究からもこの両者が同時代に活動したことがわかり、飯氷命を瓠公とする所伝には信憑性がある、とする。
神武元年紀元前60年説は紀元前57年に新羅を建国した瓠公(赫居世=稲飯命)と符合する。紀元前60年に稲飯命は辰韓で周囲に「弟が倭国の天皇になった」と自慢したふしがある。
(2)中尾遺跡
倉吉市の四王寺山(神倭磐余彦の4兄弟がいた)で見つかった紀元前100年頃の中尾遺跡(住居跡と国内最長の鉄矛)とも符合する。別稿「神倭磐余彦4兄弟のいた倉吉市の四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された」を参照されたし。
(3)九州の鉄の鏃
九州各地で見つかっている紀元前100年頃に使われた鉄鏃とも符合する。
以下の鉄鏃は辰韓・加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神武天皇たちに送られ、九州で使われた。
※(2015-07-19) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。
(4)妻木晩田の松尾頭遺跡
妻木晩田の松尾頭遺跡は紀元前100年頃に始まっており。所子の糺神社から神武天皇が来て出雲族に宗教改革を始めさせた。別稿「神武天皇たちは妻木晩田を開いた」を参照されたし。
(5)高地性集落
人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から、高地性集落の遺跡が見つかっており、その性質は「逃げ城」とされる。高地性集落の分布は、弥生時代中期では中部瀬戸内と大阪湾岸にほぼ限定される。
略奪集団(出雲族)から住民を避難させるために神武天皇は高地性集落を造らせた。また分布からもわかるように、弥生時代中期の神武天皇は広島県福山市を本拠地とし、東は摂津国と大阪湾沿岸までしか行っておらず、奈良には行っていない。
3 神武天皇の生誕年は52歳で即位したとされるから紀元前112年頃となる。饒速日の誕生は紀元前210年以降である(父の天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年だから)。饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年25~30歳くらい。瓊瓊杵命は饒速日が亡くなった頃に生まれたから紀元前180年頃の生まれと思われる。紀元前180年(瓊瓊杵の生誕年)引く紀元前112年(神武天皇の生誕年)は68年であり、それを2で割る(ウガヤフキアエズは火火出見のあだ名だから神武天皇は瓊瓊杵の孫)と34歳となる。世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
また、2代綏靖天皇は神武天皇が即位後に娶った皇后の第2子であるから紀元前55年頃の生まれと思われる。7代孝霊天皇(生誕年を115年とする)までは5代であるから、世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
神武天皇は特別だから除外すると、瓊瓊杵命から神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であり、綏靖天皇から孝霊天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であるからほぼ同じになる。この結果は、天照大神は徐福(紀元前210年渡来)だったという私見にも合致する。
出雲国と接する地域で鬼(出雲族)と戦っていた孝霊天皇(115年~211年)が倭国大乱の時代の天皇となり、皇女の倭迹迹日百襲姫の生誕年を151年頃とすると倭迹迹日百襲姫は倭国大乱の時代を生きた「宋女」となる。
古事記・日本書紀の初期天皇の寿命はあまり長すぎるが、「魏志倭人伝」に「倭人はたいへん長生きで、100歳、あるいは8、90歳まで生きる」とあるから世継天皇を生む年齢も現代とあまり変わらなかった。その後、荘園制度や過酷な年貢の取立てなどで藤原氏に搾取されて寿命は短くなるが・・・。