シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。
1 古事記における第2代天皇、第3代天皇、第5代天皇の帝紀(欠史8代であり、藤原氏は8代の旧辞を消したため安心してそれほど改ざんはしていないと思われる)
第2代 綏靖天皇
神沼河耳天皇 皇居は葛城高岡宮。
第3代 安寧天皇
師木津彦玉手看天皇 皇居は片塩浮孔宮。
第5代 孝昭天皇
御真津日子訶恵志泥天皇 皇居は葛城掖上宮。
2 第2代天皇が葛城山(鳥取県北栄町)に高岡宮(曲の岡神社)を築いているので葛城地方は葛城山(蜘ヶ家山)と日向(四王寺山と葦原中津国)と思われる。師木地方もこの近くにあるはずである。
3 第3代天皇の皇居である片塩浮孔宮の「片塩」とは塩分濃度が半分の海に面した汽水池(津)の存在を窺わせる。その汽水池(津)のことを師木津と言っていたと思われる。第3代天皇の「師木津」は第5代天皇の「御真津」と対応して「師木の津」と読め、「師木にある津」と読める。
4 第5代天皇の皇居である葛城掖上宮は葛城地方にあり、御真津彦の「御真津」は葦原中津国(鳥取県北栄町)にあった津(橘の花の形をしていた)を表すものと思われる。師木津はもう一つの津である東の東郷池(柏葉の形をしていた)が候補に挙がる。師木津とはこの当時海との出入口が広く塩分濃度が高かったと思われる東郷池と思われる。
5 古事記・雄略・白い犬
雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾(シキ)の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じである。東郷池の近くに長瀬高浜遺跡があるが、そこから鰹魚木をあげて屋根を作った家の埴輪が発掘された。
入母屋式家形埴輪 鰹魚木をのせている 紀元450年頃
四注式家形埴輪 鰹魚木をのせている 紀元450年頃
これらは志幾(シキ)の大県主の家を模して作った埴輪と思われる。
鰹魚木をのせている家形埴輪は他府県でも出土しているが、近くに津のある遺跡は長瀬高浜遺跡だけである。東郷池が師木津であり、東郷池周辺が師木であったと思われる。
これらは志幾(シキ)の大県主の家を模して作った埴輪と思われる。
鰹魚木をのせている家形埴輪は他府県でも出土しているが、近くに津のある遺跡は長瀬高浜遺跡だけである。東郷池が師木津であり、東郷池周辺が師木であったと思われる。
6 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市) 海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市) 海抜130m 海まで24km
※ 私見
鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外にも他府県にある。しかし、第3代天皇の「師木津」の諱より、師木の中には津があるものと思われる。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外の遺跡・古墳はいずれも船の出入りできる津(湾)の近くにはない。(1)の長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は津(東郷池)のそばにある。
志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことと思われる。雄略天皇の皇居は鳥取県倉吉市打吹山の長谷寺にあったが、古事記・雄略・白い犬の舞台は鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。難波津も東郷池のことであり、河内は倉吉市鴨河内のことと思われる。
古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。