「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

「倭人が新羅を攻撃した」とする「三国史記」と「伝承」は改ざんされている

2018-05-02 03:13:56 | 序章
 「倭人が新羅を攻撃した」とする「三国史記」と「伝承」は改ざんされている。

1 原古事記(712年)には新羅は倭国と兄弟国であり、百済は倭国の敵国であったと書かれていた。藤原氏は百済は良い国であり新羅は悪い国であったことにするため、原古事記に書かれていた新羅と百済を入れ替えて記紀を改ざんしたから倭国と新羅との関係も悪かったことにしなければならなかった。倭国と新羅は神武天皇が即位した時から兄弟国であったことになれば、新羅と百済を入れ替えたことが徒労に終わるからである。すべてを整合させるためには倭国と新羅の関係は悪かったことにする必要があった。そのために、原三国史記を改ざんし、新羅に伝承を創っていったのは統一新羅が滅んで(935年)からと思われる。

2 文献に残る「新羅に対する攻撃」
(1)3世紀までの倭国と新羅との関係(ウィキペディアより)
 「三国史記」によると、新羅建国時より日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。
 紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王(稲飯命)の説得に応じて倭軍は撤退する。
 14年 倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
 72年 倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきた。角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した「三国史記」。
 107年 倭国王帥升(孝安天皇)らが後漢の安帝へ生口160人を献じた「後漢書」。
 121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した「三国史記」。
 123年3月に倭人と講和した「三国史記」。
 208年夏4月、倭人が国境を犯す「三国史記」。奈解王は将軍利音に反撃させた。
第11代助賁尼師今
 奈解尼師今の太子でもあった伊飡の昔于老を取り立てて、国防に当たらせた。
 232年4月に倭人が首都金城に攻め入った「三国史記」。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
 233年5月、倭人が東部国境に侵入「三国史記」。
 233年7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
 239年 倭王卑弥呼は魏の明帝へ男生口4人、女生口6人を献上した「魏志倭人伝」。
 243年 魏の少帝へ生口を献じた「魏志倭人伝」。
 245年10月、高句麗東川王の侵入を受け、昔于老が出て防戦したが、勝てずに馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却したという。
 第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 ~261年)
 247年7月に、父の骨正を世神葛文王に追封した。
 248年2月には高句麗に対して講和を行い、百済との交戦に集中する政策を採った。
 248年 倭王台与は生口30人を魏へ献じた「魏志倭人伝」。
 255年9月には百済の侵攻に対し、一伐飡の翊宗が百済軍を槐谷(忠清北道槐山郡)で迎撃したが、百済軍によって殺されてしまった。続けて10月には百済は烽山(慶尚北道栄州市) 城に攻め込んできたが、よく守って降伏せずに済んだ。
 261年3月には百済古尓王は新羅に和親の使者を発したが、沾解尼師今はこれを黙殺した。「三国史記」。
(2)4世紀の倭国と新羅との関係(日本書紀・三国史記より)
 368年(応神天皇14年)、弓月君が新羅から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし百済人が拒んでいるので、みな百済国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、百済国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった「日本書紀」。
 370年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰、的戸田宿禰を任那に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと百済が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて百済を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて百済の国境に臨んだ。百済王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた「日本書紀」。
 372年4月、(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
 377年、(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
 379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
 391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
 393年 (百済か高句麗)が攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。

3 私見
(1) 紀元前50年、新羅に侵攻するのは倭国にいた準王一族(出雲神族)しか思い当たらない。紀元前50年は神武天皇が新羅の稲飯命と協力して倭国の準王一族を平定し初代倭国天皇として即位した紀元前60年の10年後であり、稲飯命が斯蘆国を建国した紀元前57年の7年後である。倭国の準王一族が反乱を起こし、鉄製の武器を造っていた新羅(斯蘆国)を攻撃したとしても不思議ではない。その後の「倭人」も準王一族と思われる。
 原三国史記には「倭人」とは書いてなかったはずである。「倭人」とは倭国にいた準王一族だから藤原氏は「倭人」という表現を使ったと思われる。
(2)208年以降の「倭人」は陸上から新羅を攻めているので、朝鮮半島に残っていた準王一族(百済)と思われる。
 倭姫命(卑弥呼)と倭健命はは三韓征伐(173年)をし、朝鮮半島の西から中国に行くために任那の領域(現在の全羅南道)を造った。国境とは百済と任那の国境と思われる。その後、百済と任那の国境は百済によって度々侵された。そこで捕らえられたのが生口と思われる。
 生口とは朝鮮半島で使われていた用語と思われる。「広開土王碑」に396年、百済が高句麗に生口(新羅か倭国の捕虜)を献上した記録がある。したがって、107年(160人)、239年(10人)、243年(?人)、248年(30人)に、中国に献上された生口(百済か高句麗の捕虜)は朝鮮半島で倭に捕らえられた捕虜と思われる。朝鮮半島に倭国に敵対する勢力がいた、ということである。その勢力が倭国と兄弟国の新羅を攻撃していた。原三国史記にはそのことが記載されていたはずである。それを「倭」に書き換えさせたのは、藤原氏である。その一族は藤原氏に関係の深い一族であったと思われる。それは、準王一族であり、百済と思われる。特に、248年に倭王台与が魏へ献じた生口30人は248年2月に新羅と百済との交戦で新羅に捕らえられた百済の捕虜と思われる。
 藤原氏は原古事記に書いてあった新羅と百済を入れ替えて「百済と倭国は仲が良く新羅と倭国は敵対していた」と改ざんした日本書紀を中国に献上した。弓月君の条も百済と新羅・任那と加羅を入れ替えたと思われる。
 372年以降の「倭」は「高句麗か百済」を書き換えたと思われる。但し、391年は改ざんされていないと思われる。
 朝鮮半島には原三国史記があり、日本書紀とは違う内容であった。藤原氏は百済出身であったから、新羅を悪者にするために、また、倭国と百済は仲が良かったとする日本書紀との整合性を図るため、「倭国が新羅を何度も攻撃した」と三国史記を改ざんさせた。
(3) 日羅は百済の任那(全羅南道)に対する度重なる侵犯をやめさせるために、蘇我馬子天皇に百済国王か百済王子を倭国に来させることを進言した(583年)。百済はこの時すでに倭国を乗っ取る計画を立てていたようである。蘇我馬子天皇は百済に対し、百済国王自らか百済王子を倭国に来させるように伝えたと思われる。百済王武は蘇我馬子天皇が騙されないことを知っていた(609年百済からの船)。蘇我馬子天皇が亡くなり蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の時代(626年~)になり、蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人が良いことを百済に知らせる者がいた(630年の唐からの使いか)ので、百済王武は次男の豊璋(中大兄王子)と三男の塞上を倭国(鳥取県中部)に人質として行かせた(631年)。豊璋(中大兄王子)は6歳で鳥取県北栄町由良宿の由良宮に来た。豊璋(中大兄王子)は18歳まで大海人皇子(天武天皇)と同じように、鳥取県北栄町由良宿の由良宮(葛城)で育てられた。亡命百済人たちは中大兄王子のことを葛城(北栄町由良)王子といった。642年に百済から自称島流しになったという船が筑紫(宗像大社)に到着した。その中に鎌足(翹岐)などの百済の要人が乗っていた。鎌足(翹岐)は中大兄王子(豊璋)と奈良法興寺の蹴鞠の会で合流(643年)し、談山で倭国を乗っ取る(テロ)計画を立てた。倭国大王である蘇我入鹿天皇は可愛がってきた中大兄王子や藤原鎌足たちのテロによって殺害された(645年)。中大兄王子が豊璋であることを悟られないようにするために、現在、豊璋の詳しい情報(生没年不詳など)は消されている。
 亡命百済人たちは、原古事記(712年)を読んで、百済の悪行が多く書いてあるので、百済と新羅とを入れ替えることにした。そして、出来上がったのが日本書紀(720年)である。734年に亡命百済王朝(日本)は完全に倭国を乗っ取った。
(4) 旧唐書(945年)は日本と倭国は別種であると記載している。「旧唐書東夷伝」の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本(亡命百済王朝)が倭国(鳥取県中部)を併合した、と記述されている。新唐書(1060年)は日本書紀に基づいて書かれている。統一新羅が滅んで(935年)から京都の藤原氏は朝鮮半島に渡ることができるようになり、1060年までに中国に日本書紀を認めさせたと思われる。三国史記を日本書紀に合うように改ざんさせた時期は統一新羅が崩壊(935年)してからと思われる(1145年完成)。
(5) 亡命百済人の藤原氏は日本書紀を中国や朝鮮半島にも及ぼした。朝鮮半島では現三国史記が編纂されるまで、原三国史記は存在していたと思われる。1145年まで高句麗、百済、新羅の歴史書がなかったと考えるほうが不自然である。原三国史記を日本書紀に合わせて改ざんした歴史書が1145年に完成した現三国史記と思われる。朝鮮半島の歴史書は日本書紀に合うように改ざんされたが、新羅には多くの伝承も残っていた。太閤秀吉の朝鮮征伐(1592年~1598年)でも分かるように、藤原氏は新羅地域を軍事力をもって制圧している。倭国における八幡神社(四万四千社存在する)による伝承の改ざんと同じく新羅地域における伝承も改ざんしていったと思われる。
(6) 斯蘆国は紀元前57年、神武天皇の兄稲飯命により建国された。倭国は鳥取県中部であり、倭国と交流するのに一番良い場所である朝鮮半島南東部に新羅は建国された。新羅と倭国は建国時から兄弟国であった。
 新羅の善徳女王は倭国の蘇我善徳天皇と交流があり親しい関係であったと思われる。蘇我善徳天皇の皇子の天武天皇も新羅と友好関係を結んでいた。紀元前57年より紀元734年まで倭国と新羅は兄弟国であった。倭国天皇家が新羅を攻める理由はない。紀元前57年から734年までの新羅に対する倭国(倭人)の侵攻は藤原氏による改ざんであり、伝承も改ざんされたと思われる。
 


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