原古事記にあった任那とは全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)のことであった。
原古事記には「百済が任那を滅ぼした」と書いてあった。日本書紀では新羅と百済を入れ替えている。不比等と百済史官は日本書紀の作成段階で「新羅が任那を滅ぼした」と書き換えた。
宋書倭国伝では、中国に行くのに百済まで陸路を通った、とする。しかし、百済は高句麗につくこともあった。
1 日本書紀における任那(※以下は私見)
◎垂仁天皇2年の条には「先帝(崇神天皇)の御真木に因んで御真奴(ミマナ)と名付けられた」とある。
※「奴」とは北九州を「倭奴国」と言っており、「倭奴国」を意識して、全羅南道の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を任那(ミマナ)と名付けた。崇神天皇の兄弟である卑弥呼と倭建命が中国に行くためのルートとして確立した。日本書紀では神功皇后の三韓征伐に替えられている。
◎応神天皇7年(361年)百済人・任那人らが来て韓人池を造った。
※百済人は後の加筆と思われる。
◎応神天皇25年(379年)25年の条は『百済記』の引用である。
※神功皇后62年と重複する。この年襲津彦(応神天皇)は新羅に行った。
◎神功皇后9年(326年?)・新羅出兵において、「高麗、百済2国の王は陣の外に出て頭を下げて『今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません』といった。それで内官家屯倉を定めた」とある。
※神功皇后(卑弥呼と倭建命)は馬韓も平定した。おそらく年代はでたらめ。私見では卑弥呼と倭建命の三韓征伐は173年である。
◎神功皇后46年(361年)斯摩宿禰は卓淳国から百済にいった。
※百済は新羅・倭国を乗っ取るために高句麗が346年に建国した。建国から15年後に作戦を開始した。
◎神功皇后47年(362年)百済が初めて朝貢した。新羅人は百済と新羅の貢物を入れ替えた。
※最初に貢物を与え、おだてておいて、後で奪い取る六韜の戦術である。
◎神功皇后49年(364年)
※新羅再征とあるが、これは倭国ではなく高句麗と百済が卓淳国に集まり新羅を討ち破った。後ろにいたのは高句麗であった。百済の朝貢品を新羅が奪ったからというのは後の創作と思われる。
◎神功皇后52年(369年)百済は七枝刀などを奉った。
◎神功皇后62年(379年)新羅(百済)が朝貢しなかった。襲津彦を新羅(百済)に遣わしたが、新羅王(百済王)に美女2人を差し出された。
※六韜に基づく行為と思われる。
◎雄略天皇8年(463年)の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。
※「倭府行軍元帥」を書き換えたものと思われる。
◎雄略天皇9年(464年)、新羅(百済)討伐「狼のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」といわれた。
※倭王武の官号より雄略天皇は、高句麗・百済と敵対していたものと思われる。不比等・百済史官は「百済」とあったのを「新羅」に書き換えている。
◎雄略天皇21年(476年)、「百済国(新羅国)は一族すでに亡んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国(新羅国)を興した」といった。
※雄略天皇がまた百済国を興したのなら、百済は倭国に頭が上がらないはずだが。雄略天皇が興した国とは新羅国と思われる。反正、允恭、安康の時代、新羅は累卵の危うき状態になっていた。反正、允恭の帝紀・旧辞はヒントが見つからないくらい大幅に改ざんされている。
◎雄略天皇23年(479年)、「筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った」とある。
◎継体天皇6年(512年)の条は「任那四県二郡割譲事件」の記事である。
※賄賂、詐欺が混ざり完全な割譲ではなく後々争いの種になった。
◎継体天皇21年(527年)の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。
※倭の軍を踏みとどまらせるために、賄賂を贈ったのは百済である。
◎継体天皇23年(529年)、加羅国の多沙津(帯沙江)を百済がいただきたいといった。加羅の王は苦言を呈した。「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城をとり、また北の境の5つの城もとった」とある。
※近江毛野の派遣の条は改ざん無しと思われる。「詔して新羅に勧め、南加羅・㖨己吞を再建させようとした」とある。※任那王が大伴大連金村に「・・・新羅は・・・」と言った「新羅」は原古事記では「百済」であった。新羅は多々羅・須那羅・和多・費智の4村を掠め取ったとするが、百済から取り返したと思われる。
◎継体天皇24年(530年)にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。冬10月調吉士は奏上して「・・・加羅を・・・」は「・・・任那を・・・」である。
◎継体天皇25年(531年)、百済本記には「高麗は安羅に至り、安羅王を殺した。また、倭の天皇・皇太子・皇子皆死んだ」と。
◎宣化天皇2年(537年)、天皇は新羅(百済)が任那に害を加えるので・・・任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮めまた百済(新羅)を救った。
◎欽明元年(540年)新羅(百済)が任那地方を併合した。
※この年、新羅の法興王が亡くなる。百済に殺害されたものと思われる。
◎欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。※百済(日本)が置いた府だから日本府という。それまでは「倭府」としていた。
◎欽明天皇23年(562年)春1月、「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。
※京都の藤原氏は任那は全羅南道の任那と思われないように、あえて具体的に10国の名を挙げて疑いを差し挟まれないようにした。
◎推古天皇8年(600年)、「新羅(百済)と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。新羅王(百済王)は白旗をあげて、倭国の将軍の印の旗の下に来たり、降伏を願い出た。・・・しかし、新羅(百済)はまた任那を犯した」とある。
※ 六韜に基づいた戦術である。
◎推古天皇31年(623年) 新羅(百済)征討の再開「この年新羅(百済)が任那を討った。任那は新羅(百済)に属した。天皇は新羅(百済)を討とうとされた。中臣連国がいうのに「任那は内宮家であるのに、新羅(百済)が取ったのです。新羅(百済)を討ち任那を取り返しましょう」と。田中臣がいう。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区別さえも偽りがある。おおよそその言うところはみな信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」と。百済と任那に使いを遣わしこの事件について問わせた。・・・数万の兵を率いて新羅(百済)を討った。新羅(百済)国王は大群がやってくると聞き、恐れて手早に降伏を願い出た。将軍らは上奏した。天皇は許された。
◎垂仁天皇2年の条には「先帝(崇神天皇)の御真木に因んで御真奴(ミマナ)と名付けられた」とある。
※「奴」とは北九州を「倭奴国」と言っており、「倭奴国」を意識して、全羅南道の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を任那(ミマナ)と名付けた。崇神天皇の兄弟である卑弥呼と倭建命が中国に行くためのルートとして確立した。日本書紀では神功皇后の三韓征伐に替えられている。
◎応神天皇7年(361年)百済人・任那人らが来て韓人池を造った。
※百済人は後の加筆と思われる。
◎応神天皇25年(379年)25年の条は『百済記』の引用である。
※神功皇后62年と重複する。この年襲津彦(応神天皇)は新羅に行った。
◎神功皇后9年(326年?)・新羅出兵において、「高麗、百済2国の王は陣の外に出て頭を下げて『今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません』といった。それで内官家屯倉を定めた」とある。
※神功皇后(卑弥呼と倭建命)は馬韓も平定した。おそらく年代はでたらめ。私見では卑弥呼と倭建命の三韓征伐は173年である。
◎神功皇后46年(361年)斯摩宿禰は卓淳国から百済にいった。
※百済は新羅・倭国を乗っ取るために高句麗が346年に建国した。建国から15年後に作戦を開始した。
◎神功皇后47年(362年)百済が初めて朝貢した。新羅人は百済と新羅の貢物を入れ替えた。
※最初に貢物を与え、おだてておいて、後で奪い取る六韜の戦術である。
◎神功皇后49年(364年)
※新羅再征とあるが、これは倭国ではなく高句麗と百済が卓淳国に集まり新羅を討ち破った。後ろにいたのは高句麗であった。百済の朝貢品を新羅が奪ったからというのは後の創作と思われる。
◎神功皇后52年(369年)百済は七枝刀などを奉った。
◎神功皇后62年(379年)新羅(百済)が朝貢しなかった。襲津彦を新羅(百済)に遣わしたが、新羅王(百済王)に美女2人を差し出された。
※六韜に基づく行為と思われる。
◎雄略天皇8年(463年)の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。
※「倭府行軍元帥」を書き換えたものと思われる。
◎雄略天皇9年(464年)、新羅(百済)討伐「狼のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」といわれた。
※倭王武の官号より雄略天皇は、高句麗・百済と敵対していたものと思われる。不比等・百済史官は「百済」とあったのを「新羅」に書き換えている。
◎雄略天皇21年(476年)、「百済国(新羅国)は一族すでに亡んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国(新羅国)を興した」といった。
※雄略天皇がまた百済国を興したのなら、百済は倭国に頭が上がらないはずだが。雄略天皇が興した国とは新羅国と思われる。反正、允恭、安康の時代、新羅は累卵の危うき状態になっていた。反正、允恭の帝紀・旧辞はヒントが見つからないくらい大幅に改ざんされている。
◎雄略天皇23年(479年)、「筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った」とある。
◎継体天皇6年(512年)の条は「任那四県二郡割譲事件」の記事である。
※賄賂、詐欺が混ざり完全な割譲ではなく後々争いの種になった。
◎継体天皇21年(527年)の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。
※倭の軍を踏みとどまらせるために、賄賂を贈ったのは百済である。
◎継体天皇23年(529年)、加羅国の多沙津(帯沙江)を百済がいただきたいといった。加羅の王は苦言を呈した。「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城をとり、また北の境の5つの城もとった」とある。
※近江毛野の派遣の条は改ざん無しと思われる。「詔して新羅に勧め、南加羅・㖨己吞を再建させようとした」とある。※任那王が大伴大連金村に「・・・新羅は・・・」と言った「新羅」は原古事記では「百済」であった。新羅は多々羅・須那羅・和多・費智の4村を掠め取ったとするが、百済から取り返したと思われる。
◎継体天皇24年(530年)にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。冬10月調吉士は奏上して「・・・加羅を・・・」は「・・・任那を・・・」である。
◎継体天皇25年(531年)、百済本記には「高麗は安羅に至り、安羅王を殺した。また、倭の天皇・皇太子・皇子皆死んだ」と。
◎宣化天皇2年(537年)、天皇は新羅(百済)が任那に害を加えるので・・・任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮めまた百済(新羅)を救った。
◎欽明元年(540年)新羅(百済)が任那地方を併合した。
※この年、新羅の法興王が亡くなる。百済に殺害されたものと思われる。
◎欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。※百済(日本)が置いた府だから日本府という。それまでは「倭府」としていた。
◎欽明天皇23年(562年)春1月、「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。
※京都の藤原氏は任那は全羅南道の任那と思われないように、あえて具体的に10国の名を挙げて疑いを差し挟まれないようにした。
◎推古天皇8年(600年)、「新羅(百済)と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。新羅王(百済王)は白旗をあげて、倭国の将軍の印の旗の下に来たり、降伏を願い出た。・・・しかし、新羅(百済)はまた任那を犯した」とある。
※ 六韜に基づいた戦術である。
◎推古天皇31年(623年) 新羅(百済)征討の再開「この年新羅(百済)が任那を討った。任那は新羅(百済)に属した。天皇は新羅(百済)を討とうとされた。中臣連国がいうのに「任那は内宮家であるのに、新羅(百済)が取ったのです。新羅(百済)を討ち任那を取り返しましょう」と。田中臣がいう。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区別さえも偽りがある。おおよそその言うところはみな信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」と。百済と任那に使いを遣わしこの事件について問わせた。・・・数万の兵を率いて新羅(百済)を討った。新羅(百済)国王は大群がやってくると聞き、恐れて手早に降伏を願い出た。将軍らは上奏した。天皇は許された。
2 私見
全羅南道で5世紀後半から6世紀中葉にかけての11基の前方後円墳が発見された。累卵の危うきにあった新羅・任那を復興した雄略天皇のあと、任那4県の割譲(512年)以前から百済(新羅)が任那地方を併合した(540年)まで、百済が侵略を進めていた時期である。
ウィキペディアは「任那日本府(倭府)とは、任那や加羅地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。ただしそれらは、ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、ヤマト王権から派遣された官吏や軍人ではないという意見が有力である。ともあれ少なくとも軍事や外交を主とする倭国の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益を有していたであろう」とする。
※541年に任那日本府とするのは任那を百済(日本)が占領したからである。540年に新羅の法興王は百済に殺害された。雄略天皇の段にも任那日本府とあるがこれも百済が占領していたからと思われる。
中大兄皇子は任那を侵さないように百済から人質として6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた百済王武の王子「余豊璋」であり(631年)、中臣鎌足は641年に自称百済から島流しになって倭国に来た「翹岐」と思われる。「余豊璋」と「翹岐」は645年に倭国大王(蘇我入鹿天皇)を殺害した。
全羅南道で5世紀後半から6世紀中葉にかけての11基の前方後円墳が発見された。累卵の危うきにあった新羅・任那を復興した雄略天皇のあと、任那4県の割譲(512年)以前から百済(新羅)が任那地方を併合した(540年)まで、百済が侵略を進めていた時期である。
ウィキペディアは「任那日本府(倭府)とは、任那や加羅地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。ただしそれらは、ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、ヤマト王権から派遣された官吏や軍人ではないという意見が有力である。ともあれ少なくとも軍事や外交を主とする倭国の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益を有していたであろう」とする。
※541年に任那日本府とするのは任那を百済(日本)が占領したからである。540年に新羅の法興王は百済に殺害された。雄略天皇の段にも任那日本府とあるがこれも百済が占領していたからと思われる。
中大兄皇子は任那を侵さないように百済から人質として6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた百済王武の王子「余豊璋」であり(631年)、中臣鎌足は641年に自称百済から島流しになって倭国に来た「翹岐」と思われる。「余豊璋」と「翹岐」は645年に倭国大王(蘇我入鹿天皇)を殺害した。
3 中国史料における任那
広開土王碑文(414年建立) には、永楽10年(400年)条に「任那加羅」とある。宋書では438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の南斉書も併記を踏襲している。梁書は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
※私見
広開土王碑文にある「任那加羅」は、「任那と加羅」の意味であり、宋書、南斉書、梁書における「任那、加羅」の併記も、「任那と加羅」の意味で別の地域である。任那は加羅ではない。ここにおける任那は「全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)」を意味していた。
広開土王碑文(414年建立) には、永楽10年(400年)条に「任那加羅」とある。宋書では438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の南斉書も併記を踏襲している。梁書は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
※私見
広開土王碑文にある「任那加羅」は、「任那と加羅」の意味であり、宋書、南斉書、梁書における「任那、加羅」の併記も、「任那と加羅」の意味で別の地域である。任那は加羅ではない。ここにおける任那は「全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)」を意味していた。
4 倭五王の官号
倭王らが、「宋」に朝貢して封ぜられた官号は、「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・ 倭国王」であり、高句麗、百済がない。
ウィキペディアは「任那は金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する」とする。
※この中に高句麗と百済がない。当時倭国と敵対関係にあったのは高句麗と百済であった。高句麗と百済が含まれていないのは当然である。ここでも任那と加羅は別々にかいてあるが、加羅は弁韓=弁辰=伽耶、任那は全羅南道の任那4県であった。
倭王らが、「宋」に朝貢して封ぜられた官号は、「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・ 倭国王」であり、高句麗、百済がない。
ウィキペディアは「任那は金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する」とする。
※この中に高句麗と百済がない。当時倭国と敵対関係にあったのは高句麗と百済であった。高句麗と百済が含まれていないのは当然である。ここでも任那と加羅は別々にかいてあるが、加羅は弁韓=弁辰=伽耶、任那は全羅南道の任那4県であった。
5 私見
日本書紀を制作したのは、不比等と百済史官であった。百済系2世の藤原不比等と亡命百済史官である。彼らは原古事記を見て百済の悪行を改ざんすることを考えた。自分の母国を悪く書かれていて、改ざん出来る立場にあるなら改ざんするのは愛国心である。母国を悪く書かれないために、新羅と入れ替えることを考えた。それが現在の日本書紀である。
倭国は鳥取県中部にあり、新羅から人力船で出港しても1日余りで到着する。紀元前57年から新羅と倭国は兄弟国であった。加羅の地は弁韓=弁辰であり、加羅と辰韓(新羅)とは雑居し同族であった。
任那は全羅南道にあったにもかかわらず、それを侵すのは百済しかいないことになるため任那は全羅南道ではなく、新羅の隣の加羅の地だと書き綴った。「百済」も「新羅」に直した。そして新羅が任那(加羅)を侵したと改ざんした。沢山、書き換えているので読む者は暗示にかけられる。だから、任那は最初から最後まで全羅南道にあった任那4県とするものはいなかった。中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も日本書紀に従って書かせているのでよけいに違うとは主張できなかった。
日本書紀を制作したのは、不比等と百済史官であった。百済系2世の藤原不比等と亡命百済史官である。彼らは原古事記を見て百済の悪行を改ざんすることを考えた。自分の母国を悪く書かれていて、改ざん出来る立場にあるなら改ざんするのは愛国心である。母国を悪く書かれないために、新羅と入れ替えることを考えた。それが現在の日本書紀である。
倭国は鳥取県中部にあり、新羅から人力船で出港しても1日余りで到着する。紀元前57年から新羅と倭国は兄弟国であった。加羅の地は弁韓=弁辰であり、加羅と辰韓(新羅)とは雑居し同族であった。
任那は全羅南道にあったにもかかわらず、それを侵すのは百済しかいないことになるため任那は全羅南道ではなく、新羅の隣の加羅の地だと書き綴った。「百済」も「新羅」に直した。そして新羅が任那(加羅)を侵したと改ざんした。沢山、書き換えているので読む者は暗示にかけられる。だから、任那は最初から最後まで全羅南道にあった任那4県とするものはいなかった。中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も日本書紀に従って書かせているのでよけいに違うとは主張できなかった。