難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった
1 古事記・応神・天之日矛において「天之日矛は夫婦喧嘩をしたため妻は母の国に行くといって船で難波にきて、そこにとどまった。天之日矛はあとを追いかけて難波に行こうとしたが難波の海峡の神が、遮りとめて入れようとしなかった。しかたなしにそこから戻って、多遅摩の国に船を泊めた」とある。
もしこの難波が大阪にあったのならば大阪で断られてまた船で但馬まで行ったということである。大阪から関門海峡まで帰って日本海に回って但馬まで行ったということである。
新羅から関門海峡まで来ることだけでも対馬海流に逆らうことになり大変である。神功皇后でも失敗して引き返したことがあったようである。神功皇后たちの御艦は流されて、沖島に着いたものと思われる。東風が無いと東に流されて難しいようである。神功皇后の伝承として残っている。それ以来、沖島に供え物を置くようになった。
新羅から関門海峡まで来ることだけでも対馬海流に逆らうことになり大変である。神功皇后でも失敗して引き返したことがあったようである。神功皇后たちの御艦は流されて、沖島に着いたものと思われる。東風が無いと東に流されて難しいようである。神功皇后の伝承として残っている。それ以来、沖島に供え物を置くようになった。
難波は東郷池のことであった。長和田より西は真っすぐな波が来ていたが、橋津が波を遮るため北山古墳より東は複雑な波が来ていた。東郷池の長瀬高浜(タギシ)には大国主の頃から沖を通る船を監視していた。出雲大社は監視塔であった。天之日矛は長瀬高浜にいた海峡の神に遮り止められて入れなかった。妻から連絡が入っていたものと思われる。天之日矛はそのまま海流に乗って但馬まで行った。これが無理のない解釈である。時代は記紀の記載より数代前の第7代孝霊天皇の頃ではないかと思われる。
「謎の出雲帝国」では、天日矛は出雲族と倭国大乱を戦っているので、弥生時代後期には渡来していた。倭国大乱は孝霊天皇の時代である。孝霊天皇は出雲族を鬼と呼んでいた。
2 古事記には「仁徳天皇(大雀の命)は難波高津宮で天下を治めた」とある。
難波高津宮は鳥取県湯梨浜町の松崎神社と思われる。第13代の武内宿禰天皇は北栄町原にいたが縄文海退により葦原中津国には大陸からの船が入ってこれないようになったので武内宿禰天皇の皇子である第14代仁徳天皇と第15代応神天皇は東郷池に移った。
この神社に来るまでの道は、道教の橋のようにクランクになっている。
高津である。大阪の難波高津宮とよく似ている高津である。
難波の枕詞は「押し照るや」である。古事記の仁徳天皇記の「押し照るや 難波の崎よ」が初出である。意味は「一面に照り輝く」である。入江の水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子、それが「押し照るや」の枕詞を生んだ。
松崎神社に上がる途中で「水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子」を写したもの。もっと高いところにある松崎神社に上がれば、広くキラキラと照り輝く東郷池全体が見えたはずである。現在は木で見えないが当時は木が植えてなかったと思われる。大伴家持も赴任地の鳥取から東郷池の難波宮に来て歌を詠んだ。
3 日本書紀・推古天皇・遣隋使において「客たちは難波津に泊った。この日飾船三十艘で客人を江口に迎えて、新しき館に入らせた」とある。
客というのは、隋から「大国維新の化」(国の文化とインフラ)を教えるためにやってきた裴世清たちである。遣隋使である小野妹子の帰国と一緒に来日した。
蘇我馬子天皇は父の蘇我稲目大王の磯城島金刺宮のあった東郷池の龍島に新しい迎賓館を建てていた。その後、裴世清たちは北栄町島の蘇我馬子大王の皇居に招かれた。曲に後宮があった。